2012年4月25日水曜日

心情主義

死に対する実感、切実感がないと、生命であるみ言葉は私の中に浸透しない。み言葉への疑問を抱く者はみ言葉の本質へは関与せずに言葉、論理だけの表層しか見ていない。み言葉の本質である生命を受け取れないのは、自分が死に対面している実感、切実感がないからだ。死に対するそれらの門を通過しなければ、門を入って広がる霊界など実感できるはずもない。全ての地上人間が死を迎えることはわかっているし、自分も死ぬと口では言う。しかし口では言いながら他人事なのだ。人の病気が他人事のように、死も他人事でしかない。死に対する恐怖を言っているのではない。死の認識に恐怖の煽りを持ちこむなら、それはまた死に対する実感、切実感とは異なってくる。また人生に嫌気を覚え、人生を遺棄し、人生から逃亡する出口と捉えても、それもまた死に対する実感、切実感とは異なる。死の門を超えた霊界こそが主体であり、重心を置くべきであり、み言葉の価値は霊界に重心を置いた生活でなければわからない。御父様の価値も霊界に重心を置かなければわからない。霊界に重心を置くとは心情主義であることだ。霊界は感嘆の世界であり、霊界の言葉は感嘆表現であり、霊界生活は愛を呼吸する生活と言えるように、地上に於いて愛を呼吸するとは心情主義であり、心情の涙が絶えることのない毎日を送ればそのまま霊界に持ち込めるものを受け取っている。お父様のことを想って、一日中涙したことがあるだろうか。御父様の愛に気付いて、一晩中悔恨の涙を流したことがあるだろうか。愛を愛として受け取れない、御父様を否定し揶揄し蔑む者達が哀れでならない。敢えて非難されるような言動をわざわざ口にされながら、御父様が悪口を言われるので統一教会を信じることが出来なかったと言える言い訳さえも、反対する者達には残しておられる。