2012年4月10日火曜日

今日の想い 391

タイトルが刺激的だと反応は実に大きい。良くも悪くもメシヤという言葉も存在もあらゆるものをかき回す。コメントもたくさん戴いたがひとつひとつに反応していたら自分の身が持たないだろう。それを思うと御父様がメシヤ宣言をされて、敢えて地雷を用意されたのは大胆すぎる。避難の矢面にわざわざ名乗りを上げる存在などそういない。イースターの日曜日、イエス様の復活をお祝いする教会の鐘が聞こえてくる。仕事の都合で教会礼拝には参加できなかったが、近所のキリスト教会の鐘の音を聞きながら、仕事の合間にみ言葉を訓読した。訓読は心の安らぎを与えてくれる時もあるが、痛みを受け取る時の方が多い。今日の訓読は特に言葉のひとつひとつが針のように心に突き刺さる。み言葉が私を裁く。お前は御父様の前に立てるかと霊が迫ってきて身が竦む。人情として、出来ることなら御父様を遠くから眺めていたいし、み言葉の深みを覗くことに躊躇もする。堕落性が、地上的執着が染みついている自分には、時としてその光が苦しくて仕方がない。しかし、それでもみ言葉で焼き尽くされる自分を差し出さなければ本当の私の心魂も生命も生まれないだろう。真のアダムが、地球の、更に宇宙の心魂として、更に生命として生まれて立たなければ、人類の未来も宇宙の未来もないだろう。堕落の心魂を持ったまま生きて行くことが許されれば、肉体を棲家としている一瞬の間は幸せかも知れない。しかし矛盾性を内包したままの存在であることに自我は引き裂かれ、私にそれは耐えられない。それは肉体が引き裂かれる以上の苦痛だ。おそらくそれは実感した者でないと分からない感覚だ。私は幸か不幸かそれを味わう。この体が無くなり、五感がなくなって霊的現実を直視させられるとき、常時その苦痛に襲われ続けることを知っている。メシヤは必要ないと断言して生きることができる人に対して、かわいそうだと思う自分もいるし、羨ましいと思う自分もいる。正直な感想だ。かわいそうだと思うのは、救いと霊的生命が得られることに未だ気付かないでいると言うこと。羨ましいと思うのは、堕落の身にとってはその道が決して容易い道ではないと言うこと。

基本的にブログ日記であって、私自身への語りであり叱咤なのですが、それでも公開することで誰かの役に立つならと思って公開しています。先回のタイトルにはいろんなコメントを戴きありがとうございました。中には心無いものもあって土足で踏み込まれたような気分になったのもありましたが、疑問を呈するにも真摯な姿勢が見えて、反論であっても嬉しいものもありました。いろんな感情が込められたものをそのまま乗せ続けると、反論や議論の行方に目を向ける野次馬ばかりになってしまうので敢えて公開は止めました。