2012年4月1日日曜日

一笑に付される話として

霊界と地上界は益々接近し、私の内面の在り様が外界である事情圏環境圏に即日現れる。時間と共に流れる外界の事情圏環境圏先ずありきで、それに対処しながら生きてきた今までの対象圏の位置ではなく、私自身が外界を先導する主体圏の位置に立つ。私が主体圏の位置に立つ場合、私が何者なのかを私自身から問われることになる。おかしい言い方になるけれども私が私自身を把握できずに主体にはなれない。私は何者か、という問いは、私はどこから出て来たか、であり、主体として立たせらる私自身は或る主体の対象としての位置を確立しない限り主体には立てない。主体には立てないのに主体圏の位置に立たざるを得ないと言うことは何を意味するか。それは自己が幾つにも引き裂かれることであり自己の破滅を意味する。今までは如何様にも好きなように自分という存在を解釈してきたし、矛盾性を孕んだままでも地上界で統一的姿で生きることはできた。しかしこれからは赦しがない。私がどういう存在かということがそのまま地上的な現れ方をする。矛盾性を孕んでいれば矛盾性を産んでしまい私の存在としてしまう。角(つの)が生える人間が生まれるかも知れないと言えば笑われてしまうが、決してあり得ないことではない。私は真の父母の子なのかサタンの子なのかを問われ、サタンの血を引くならサタンも幾つかの悪鬼の面妖な類に分かれるように、悪魔的堕落存在としてのそれぞれの突出した在り様を、顔面様相、肉体様相、行動様相に見るようになるだろう。もはや神の似姿としての均整のとれた統一的身体を保持しながら堕落的内面を保持することはできなくなる。この近未来への見通しが当たっていないとすれば、摂理は基元節を超えて大幅に延長されたと言うことだ。

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