2012年4月11日水曜日

愛の開拓者として

蓄えれば形あるものとして増えてゆき、学べば知識として増えていく、そんな地上的算術が通用しないのが霊界であって、蓄えたり学んだりという外から内に受け取るのとは異なっている。逆に内から外に差し出すことで増えてゆき、差し出す愛の力、為に生きる力が私が活動できる霊的環境を造っていく。この地上でどれほど犠牲的歩みを供えたとしても、それが直接御利益的に受け取れるものとはならない。与えれば与えるほど失っていくのがこの地上の道理であり、犠牲的歩みを供えてもそれが御意に適う本当の精誠と言えるのかどうかを失いながら試される。与えれば地上的なものは失っていくけれど、与えることで収穫するものがあることに現代人は気付いている。それは与えるという行為そのものからくる道徳的満足感だ。現代人はこの満足感を得たいが為に与えている。身近な困っている人へ手を差し伸べることから始まり、災害地域援助や後進国に対する様々なボランティアもそうだろう。譬え目をとめられることはなくても、物に満たされることよりこの満足感に満たされることの方を選ぶ。それはそれで尊い精神であり、イエス様が霊的勝利をされることで地球と人類に浸透した愛の力をそこに見る。しかしその愛の力こそが最高の愛の基準だと信じていて、それ以上の愛はイメージすることもできないでいるが、イエス様が本当に差し出して地上に残したかった真実の愛は今の愛の基準を遥かに超えている。私達は御父様が語られる真の愛という言葉を口にしているが、真の愛の本当の味を知らずに言葉だけを口にしている。真の愛という言葉が生きて働く為には、簡単に言うと、真の愛の本体であられる御父様とひとつになることだ。ひとつになる為には私の肉体生命、心魂生命を超えて、即ち犠牲にしても御父様を重要視する深い帰依が必要であり、それが絶対信仰、絶対愛、絶対服従だ。地上的なものは差し出して当たり前で、道徳的満足感に代表される心魂的愛すらも犠牲にして差し出し、更に私の自我さえも否定して差し出すことで真の愛を相続する。私達は愛の開拓者だ。社会から道徳的に裁かれ、悪のレッテルをはられ、親兄弟からも、更に家庭からさえも否定されながら、それでも人類の先駆となって真の愛の開拓者の道を進んでいる。どんなことがあっても御父様が先導する開拓者の隊列から外れるべきではない。エベレストの最後の絶壁から転げ落ちることは即、死を意味する。摂理の最後の峠から転げ落ちれば最も高かったものが最も低い位置に叩きつけられる。その意味は私達は最高の霊的存在、愛の存在になれる可能性もあり、逆にもっとも恐ろしい地獄を舐めることになるかも知れない。決意と覚悟のない者は、言い訳がましく反論の口を開かずに、静かに消え去った方が身の為だ。