2012年4月11日水曜日

今日の想い 393

子供にとって成長過程それぞれの段階に、親の存在の在り様は強く結び付いている。親は親、子は子としてそれぞれ独立した存在であるけれども、肉体は独立しているようでも心魂は独立してはいない。思春期の子供の心魂形成の重要な時期には特に、親がどういう存在であるかは子供の内面に直結している。父と母の関係性に見る考え方や感じ方、行為も含めて子供の心魂に色濃く影響する。それは子供に取って他人事だと割り切れるものではない。不倫や離婚となると爪痕を残すどころか心魂に大きな闇をつくってしまう。しかしその問題と、真の家庭とを同列に並べてどうこう言うことはできない。その関係性を真の家庭にも宛がえて様々な非難を浴びせるけれども、本然の人間ではない堕落人間が本然の表象、本然へと帰っていく道を指し示せるぐらいなら地上天国は遠の昔に為されていただろう。罪の根源は心魂の境域を越えて、次元の深みの奥に下っていかない限り見届けることはできない。それほど根が深い問題だから、堕落とは関係の無い存在、メシヤが必要なのだ。子供が見たくない親の部分から受け取る生理的嫌悪感に任せたままで、心魂の成長への道は開かれないように、自分の感情に従い霊的領域に至らない心魂表象だけに任せたままで、救いの道が開かれる訳ではない。魂それ自体が病んでいるからだ。肉体が独立しているように私の心も独立していて、他から何の影響も受けるものではないと思っている者が、真の父母を云々言うのは所詮他人事だ。肉体が自然環境から切り離され宇宙の彼方に持っていかれたら存続できないように、心魂を照らし養分を与えて心魂存在として存在たらしめるものに私自身が依拠していることが分かっていない。それさえも認めなくてどうして霊的領域の事柄に話を進めることができるだろうか。結局、自分が堕落の血統を引き継いだ結実体であり、自分の中に厭う堕落性があることを認識できなければ、言葉をいくら尽くしても限度がある。堕落がわからなければ復帰はわからない。復帰が分からなければメシヤの必要性はわからない。メシヤの必要性がわからなければメシヤの路程が理解できるはずが無い。