2012年4月17日火曜日

ユダの手紙

しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。(ユダ10)
初代教会時代にも分派をつくって惑わす輩が多くいて、それに打ち勝つように、信仰の為の戦いを励ます為に記された書簡があり、ユダの手紙はそのうちのひとつだ。講論にはユダ6節からの御使いたち(天使)の罪をソドム、ゴモラと同じ淫行の罪だとするところを堕落論では引用していて、その聖句だけは食口はよく知っている。しかし、ユダの手紙によって信仰が力づけられた多くのクリスチャン達の霊を、この手紙全体を心に刻むことで受け取れることはあまり知らない。旧約はメシヤを迎えるための準備を読み手に呼び起こす御言葉であり、新約は再臨主を迎えるための準備を読み手に呼び起こす御言葉だが、再臨主を迎えて新しい真理が出れば役目を終えるというものではない。旧約、新約に流れてきたものが私の意識下に於いて流れていて、それを意識に上らせることで歴史の結実体としての私が御父様に出会う意味がわかるし、成約の御言葉への理解も本物に近付く。今の食口にはクリスチャン達が迫害を乗り越え様々な試練を乗り越えてきた霊的勝利の運勢を受け取らなければ、今の我々の認識と意識だけでは霊的力が足りない。御霊を内面に受け取ったクリスチャン達、特に初代教会の彼らの霊的力を見くびってはならず、彼らの協助を戴いてこそ野生馬のような私の霊界は屈服する。御父様が実体で勝利されたように、私たちも実体で勝利しなければならない。それを真剣に考えれば考えるほど、自分の足りなさ弱さに打ちひしがれるだろう。その時に囁かれるように気付かされるのは、復活したイエス様から御霊を内面に戴いた聖徒達の、幼い私達への力強い協助だ。