2013年9月10日火曜日

今日の想い 622

原理講論を読むと謙譲語が多く使われている。神様は神様ではなく神と記されてはいるが「中和的存在としておられ」るのであり、「いまし給う」のであり、そのように神様の記述に関しては謙譲語が用いられている。特に日本語にあるような謙譲語だとか尊敬語だとかの表現方法は、科学的認識でなければ真理ではないという唯物論に則した教育環境で洗脳された人間には、そういった表現方法自体が胡散臭い。天を見上げる感情、高次の精神存在に対する畏怖の感情が育たない限り、どんなに理論理屈で神を証明し、霊界を証明しても彼らの根底に受け入れる素地はない。すなわち終末感に襲われ、科学万能主義に立って来たもののそれがどれ程無力で死の前にあっては意味を為さないものかを実感した者しか神様を求めないし、霊界を求めない。み言葉を受け入れ、御父様をメシヤとして認識した兄弟でさえも、意外と畏怖の感情への嫌気感が抜けきれず、自分の良心基準では量れなかったり、理解していた認識が裏切られたりすると、途端に手の平を返したような態度に出て教会に反するようになる。心情に対する正しい認識を持っていない。心情と自分の良心基準とを混同している。この世の者達が御父様を受け入れないように、兄弟達も御母様を受け入れない。そう言うと白い目で見られてしまうだろうか。今、特に私達が問われて試練されているのが、御母様に対する気分であり感情だ。御父様に対しては、どんなことがあってもこの御方について行こうと本人が納得しているのでここまで着いてこれたが、御母様に対しては御父様が先ず在りきでおられたのであって、御父様が聖和されて以降、御母様へ向かう気分や感情が浮いたままになっている。御父様が霊界でどうしておられるのだろうか、と言うような関心よりは、御母様がどうみ旨に向かわれようとしているのか、と言った関心の方がより重要だ。見えない神様を恰も見て会って意見を伺って来たかのように、御父様は周りの策略に嵌っておられて神様の願いに事実上添えておられない、と判断したグループ派と同じように、さも聖和されて肉体を持たれない御父様の今の今の願いを熟知しているかのように、御母様への距離を置いた意見が当然のように為されることは、御母様を真の御母様と認めた立場には無い。今はこれまでの惰性で御母様にもついて行っているような感覚でいるけれども、時間が経てば経つほどに御母様に対する冷めた見方を自分の中に見るだろうし、そうなれば次第に離れて行ってしまう。訓読の重要性はその通りだけれども、訓読しながら御父様を求めて求めて、それで実体を持たれている御母様へ向かう気持ちや感情が同じように付いてくるのかどうか。私が肉体を持ち、この地上に天国建設するのであれば、実体を持たれる御母様に実体で侍ることが最優先されるはずだ。

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