2013年9月6日金曜日

今日の想い 616

ブログのコメントの遣り取りを見ながら、否定的な兄弟にどう間違っているかを説明するにも、既に論理では無理があると思われた。否定派肯定派両者のステージが既に異なっている。同じ言葉でも異なる言葉として受け取る。霊界を信じていると言っても、正しく信じようとしている場合と間違った認識の場合と二通りある。正しく信じようとしている方向性ではあっても未来的に完全な霊的知に至るのであって、今という時の断片での認識には間違った部分もあることは認めなければならない。しかしそれでも霊的無知から霊的知に至る正しい方向性にあれば、その人にとっての霊的背景、霊的環境が既に協助体制にある。霊的背景、霊的環境が異なる二人が同じ言葉を使って遣り取りしようとしても、全くかみ合わないという場合が出てくる。特に地上界霊界の壁が取り払われた後天時代はその傾向が益々顕著になってくる。み言葉は霊的な言葉だ。食口の間で同じみ言葉で教育を受けたにも拘らず、以前には無かった捉え方の違い、認識の違いが起こってきたのは、壁が取り払われて霊界がダイレクトに影響を与えるからだ。それぞれで背負っている霊界が異なるからだ。特に情報解放社会となって、教会の実情、御家庭の実情、御父様の過去の事実などがあからさまに遣り取りされるようになると、それが避けられないひとつの後天時代という解放的時代の意味でもあるけれど、そう言った不信を抱く情報も含んだ全てを知ることで、霊界を正しく認識する、み言葉を正しく理解することに拍車をかけるようになる場合と、それとは全く逆に、情報によって自分の中に起こる否定的感情を中心として霊界の認識、み言葉の理解を自分の受け入れられる限定的範囲に留めてしまう場合とが起こる。その場合結局は自己を否定できず自己中心的な志向感情意志に向かわざるを得なくなる。御父様の描く理想世界、御父様の描く地上天上天国ではなく、自分の描く理想世界、自分の描く地上天上天国だ。しかしそんな理想世界、そんな地上天上天国が存在するかどうか、あるいは存在させることができるかどうかは、極めて疑問だ。そこまでの創造性、創造力が本当に己にあるなら、第二の神になれる。創造された存在でありながらも創造神になれる。突き詰めて思考すればそこまで行き着くはずだけれども、おそらく、そんな深い思考による発言ではなく、只の感情に委ねた熟慮のない発言であって、まともに対すれば足を引っ張られるだけだ。

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