2013年9月27日金曜日

ハイエナ論理

ハイエナ論理というのがある。スロット攻略の話ではない。獅子とハイエナと狼がいて、一匹の獲物を捕らえた。獅子はハイエナに分配を頼み、獲物を三等分してそれぞれ受け取ろうと提案した。ところが獅子はハイエナを噛み殺してしまった。そして今度は狼に分配を頼んだ。狼は獲物の三分の一のハイエナ分は獅子がハイエナを片付けてくれたのだから獅子が取るべきで、獅子の分はもともとそうなのだから獅子が取るべきで、残りの狼の自分の分は獅子を尊敬しているので獅子が取るべきだと言って三等分した。獅子は狼を噛み殺さずに三等分の論理に従って三つの部分を受け取った。これがハイエナ論理で、同じ三等分の論理でも別の現実に適用できるというものだ。異なる現実への適用によって結果が全く違ってくる。食口の殆どは原理を知ってこの道に来たのだから、入口は原理という論理の門をくぐって入ってきた。なかには神霊体験、聖霊体験、或いは先祖が夢に現れてというような体験を通してこの道を決意した食口もいるが少数派だろう。神霊派食口では晒されることのない論理の試練、思考の試練が論理の門をくぐって入った真理派食口には待ち構えている。入り口は論理の門であっても、歩む路程で御父様との心情因縁を結びながら、論理(思考)から心情へとそのステージを高めるなら、論理の試練、思考の試練は試練とも言えないものだけれども、固定概念というものを基底に置いていて、そこを崩すなど思っても見ないものだから論理の試練で躓くことになる。独島竹島問題にしても、韓国は韓国で言い分がある。日本は日本でまた言い分がある。言い分とはそれぞれの論理だ。国際司法裁判所を持ち出すのは日本の論理であるけれども、韓国の論理は裁判所が図り知れない遥か昔の事実を主張する。どちらの論理が正しいかという以前に現実がある。それは獅子がどの国でハイエナがどの国かという現実、もし日本がハイエナなら狼にならなければならない現実があるということだ。日本がどれほど理路整然と正義を立てても、一体何処の国が、損を蒙るにも関わらず日本の論理を正しいと受け入れるのだろうか。そんな国は何処にも無い。それは、現実に対して論理は意味を為さないと言うのが論理の位置付けではなく、現実に対して論理を合わせることで論理が意味を持ち力を発すると言うことだ。食口が陥る論理の試練は霊界の事実を認識し、霊的無知の知に至り、霊的死を自分にもたらす罪という現実を先ず知らなければ越えられないし、知ってその現実に論理を合わせることで見えなかったものが見えてくる。現実が見えないのに(霊界がわからない、救いがわからない現実)、そういう者に限ってもっともらしい言い分や論理を立ててくる。私の中に論理を立てようとする思考と、その論理とは相容れない沸々と湧いてくる感情と、その狭間で選択する意志とがある。私の中にハイエナと獅子が戦い、狼が傍で様子を見ている。

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