2013年9月2日月曜日

今日の想い 614

私が入教した頃の兄弟達は皆輝いていた。私も彼らのように輝きたいと思った。そして自分の親兄弟にも輝いている兄弟姉妹達に会って欲しいと思った。み言葉が入るかどうかは疑問だったけれども、彼らに会えば親は納得するだろうし、妹も弟も入教するはずだと信じていた。あの当時の輝きはいつ頃から失せていったのだろうか。皆が二十代という青年で、地区長ですら26歳の若さだった。あの若さの集まりが輝きを見せたのだろうか。だから年と共に輝きを失ったということだろうか。円字を組み、拳を振り上げ、声も張り上げて青年の木や成和青年歌を歌ったあの力強さ。皆が床を叩き、涙ながらに訴え、家が事実揺れた全体祈祷のどよめき。ヤクザ顔負けの勝共活動の派手な証しや興味深い霊的体験の証しで食事の場はいつも盛り上がった。そして会えない御父様の香りを少しでも味わいたいと必死で中心者の話に喰らいついた。今思うと訳もわからずに満たされていた。若い、スポンジのような求める心魂を、満たして余りあるほどの内的恩恵がいつも与えられていた。信仰に燃え、自身に満ち、希望と理想に溢れていたあの輝きに吸い寄せられるように、伝道は進んでいくはずだと思った。そうしてそのまま地上天国になっていくと信じていた。しかし経済復帰が願われ、献金摂理に突入すれば突入するほど内的な輝きは消え失せていった。輝きは真理と神霊に拠るものであり内的復興をもたらしより輝くけれども、地上的なもの、すなわち物を求めて内的な輝きは復帰に投入されていった。確かに地上的な実績、まとまった献金額が要求されて内的復興から外的復帰に移っていった。だから私達は輝きを失い、光を放たなくなってしまったのだろうか。摂理故に私達は内的なものを犠牲にしてきたのだろうか。もちろん御父様に繋がる(接木される)ことで存在としての霊的核は戴いたのであり、救われた事実は私の中では否定のしようがないけれども、霊的な核がそのまま心魂様相に影響を与える訳ではない。復帰の過程で一度は心魂の枯渇を甘受しなければならなかったのかも知れない。確かに堕落的な自我に根ざした全ての心魂内容を枯渇させ、そうした自己を一端否定しなければ、真の愛の祝福による霊的な核が芽を出し祝福の木の実体として成長していくことは困難だとわかる。私達は堕落的なものを一掃されて、祝福家庭本来の心魂の輝きを取り戻そうとしている。初期教会に象徴的に見出されていたあの内的輝きを、80歳にしてカナン地球星に着地された御父様と共に着地した私達は、あの心魂の輝きを新たな次元で取り戻し輝き増すはずだ。

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