2013年9月8日日曜日

今日の想い 620

御父様は、人間が霊肉を持つ存在であるように、教会を立てられると同時に事業も立てられた。伝道(牧会)と経済の両輪が大切であることを十分に理解されて、どちらにも力を入れてこられたけれども、教会がアベルで主体的位置であり、そして事業がカインで対象的位置であることはずっと変わりが無い。事業の中でも水産事業は御父様の特別な思い入れがある事業の一つであり、よって水産事業の拠点であるアメリカに、たくさんの食口を日本から集められて事業基盤を築かれたけれども、しかし水産事業であってもやはり教会に対してカインの位置にあることははっきりしている。水産事業の総会に御父様が来られた時、み言葉を戴いたことがあるが、事業はカインの位置にあることを得々と説明されて私達に念を押された。事業分野は教会に比べて発展し易い。事業はこの世の社会が受け入れる土俵で活動するのだから発展するのは当たり前だ。いや、発展して当たり前だ。しかし或る程度発展して結果を出せるようになると、途端に傲慢気分が覗いてきて教会が発展しないのを批判し始める。或いは教会から離れ始める。事業に携わる者が貢献してきたほどの貢献を教会の食口達に見出せないと意見する。牧会者と事業者はその土俵が違うのであり、事業者が投入する苦労や精誠と同じ精神基準を投入しても、教会発展としては砂地に水をまくようなものだろう。だからその点を理解してカインの位置で教会を支えないと、御父様の願いには応えられない。今のこういう状況だからこそ、僅かな歪が一大事になるのであり、カインの本分をわきまえて出しゃばらず、しかし支えていく姿勢が必要になる。事業をやっていると給料として貰うのは当たり前だという感覚があるけれども、牧会者は献金から幾らかの生活費を戴いているのであって、給料を貰っているのではない。敢えて生臭いことを言うなら、給料はいくらでも貰えるけれども、生活費として支給される額は限られているということだ。牧会者の生活費が自分の貰う給料より高いという場合は牧会者側の問題ではなくて、自分の事業への貢献度が低いから給与額が少ないという自分の問題だ。給料としていくらでも貰える位置にあるのに、実力が無いため僅かな収入しかなく、よって献金は更に僅かしか出来ないとなると、自分は恥ずかしいカインだと思わなければならない。

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