2013年9月27日金曜日

今日の想い 633

雲ひとつ無い青空が広がり乾いた風が頬を撫でる。夏を追いやって秋がやってきた。青空を眺めていると高く遠くに黒い点が移動するのが目に入った。ゆっくりと旋回している。目が慣れてくると広げた翼が確認できて、それが鷲だとわかった。澄み渡った青空高く、地上のことなど無縁のように、おそらく地上で得たいと思う自由など比べようもない大気の自由圏で泳いでいる。人間は空への憧れがある。地上に光を届け、雨を降らせ、風を起こし、そして人間の気分を精神的な高みへと向かわせる存在が空に、大気の中に存在している。ただ空高く飛んでみたいという憧れを越えて、その存在達に会いたい憧れがある。その見えない霊的な存在はより神様に近い位階の存在に違いなく、その霊的存在達を尋ね歩き(尋ね飛び)より高みの事実を受け取りたい。空への無意識な憧れは意識下の本質的欲求の表れだ。人間が小宇宙であれば、被造物のあらゆる要素を人間の中に見るはずだ。外的に見るだろうし内的にも見る。鷲が自由に空高く舞うように、人間の自由は思考にある。思考として内的世界を空高く舞う。内的な思考への形成力は、この被造世界で外的に翼を形成した力、とりわけ鷲の翼を形成した力と同じはずだ。思考の自由が感情の解放をもたらし、そして自由意志の存在になる。唯物的な、物質的機械的な真理の一面だけ信奉して生きれば、自由のつもりが実は枷となって個性完成を阻んでしまう。唯物論を越えて、進化論を越えて、凹凸の二性で四方に展開され創造されたこの創造の原理であるけれども、物質的機械的な基底概念で創造原理を捉えようとする現代人の悲しさがある。結局は思考が唯物的な思考形態の枷にはめられて、創造原理を創造原理として捉えられない。思考の力を、創造本然の本来の力とする為に、あの鷲の翼に学ばなければならない。創造原理が確かに論理的だという理由だけで受け取るならば、それは原理のみ言葉を理解しようとはしていない。創造原理を真に理解した者は、霊界の実存を悟る。霊的存在達を見る。

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