2013年9月23日月曜日

今日の想い 631

祝福を受けた男女であっても、この世の男女関係でも、横的な愛は横的な愛だ。縦的な愛を立てて、縦的な愛に合わせて横的な愛の関係を築くのか、縦軸を無視するか曖昧にしたままで横的な愛の関係に入るのかの違いがあるけれども、それでも横的な愛は横的な愛だ。祝福家庭の夫婦関係が、横的な愛として花開いているかどうかは、二世にも影響するだろうしこの世の人達が祝福を受けたいと思える動機にもなる。縦的な愛を無視できないのでこの関係を維持しなければならないという縛り先行で、横的な愛、天の願う夫婦関係が本当に築けるだろうか。横的な愛に限って見た場合、この世の愛の関係性の方がより花開いているとは言えないだろうか。もちろん咲けばいい、咲いて直ぐ散るにしてもまた咲かせればいいとは言えないことは承知した上での問いだけれども、この世の愛の花の方が魅惑的であることは確かだ。取って食べてはならないという戒めの期間を越えれば、戒めはとけて、食べることを許される。しかし祝福家庭として絶対性に立てば、相対者以外から取って食べることは勿論許されない。それは解かれることのない戒めとして私達の中にある。しかしこの戒めは夫婦の横的関係がうまくいかず、横的な愛として花開かないが故の横的愛の渇望からくる戒めであって、天国の門が開かないから楽園や中間霊界が現れたように、本来横的愛が花開けば現れる必要のない戒めであることは察しが付く。私の中にこの戒めがあることは、未だ完成基準に届かない人格であり、それは縦的愛の関係が歪であり横的愛が正しく垂直の位置で為されないか、或いは横的愛の重要性をどちらかが無視している場合もあるだろう。夫婦の愛が横的愛として花開いていないということだ。ティピカル(通常の)な男性食口はどこか世捨て人的な部分があり、女性食口はどこか美の対象であることを捨てた部分がある。この世的に言うとダサい、魅力がない。ダサい男と魅力のない女のカップル、これが本当に祝福の証しになるのかどうか一度考えてみた方がいい。縦的愛は主体であり横的愛は対象であるけれども、横的愛の刺激で縦的愛をより深めることができる。

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