2013年9月12日木曜日

今日の想い 625

心情という言葉は実に重い言葉だ。心情主義だと掲げれば、私の事情や感情を優先しないどころか否定してまでも、より高次の願いや想いを自分の願いや想いとして生きることになる。個人を否定しても家庭、家庭を否定しても氏族、氏族を否定しても国家、という風に、より公的な願いや想いを優先する。そう説明すると思考でしか受け止めないけれども、心情が重い言葉だと言うのは、思考では把握できない領域、思考では動かすことが出来ない重い愛の波長、犠牲的愛の波長で綴られるものが、心情という言葉に表わされるからだ。私達が愛という言葉を使うとき、それが博愛や親の愛のような見返りを望まない愛であっても、心情の領域にまで至る愛となると私達の愛の概念を越えている。敢えて真の愛という言葉を使って私達の愛の概念に留まらない愛、心情に至る愛を表現しているいるけれども、真の父母によって開かれた心情世界は真の愛の磁力が及ぶ真の愛の磁場圏として広大なる宇宙さえも包み込んでいる。私が心と体があるように、宇宙という外的現われの背後には原因的な心に変わるものが必ず存在している。私が思考感情意志の存在であるように、宇宙にも思考が働き感情が働き意志が必ず働いている。それをどこまでも機械的自然、機械的宇宙として、宇宙心魂が働く原因存在を否定するなら、自分自身の思考や感情や意志も幻想に過ぎず、確かに存在するのは肉の塊だけになってしまう。認める認めざるにかかわらずそれは唯物主義だ。無神論を信奉する唯物主義だ。それはこの宇宙創造に何らかの力が働いたことを信じて当然だとしても、それが機械的力に留まる限りは唯物的神でそれは神とは言わない。力は意志なくしては作用しない。宇宙秩序への力が崩れることなく作用しているのは意志が働いていることを認めて当然だ。自然に何々する、と言う言い方は実に誤解を生む言い方だ。そこにはこの地球の自然が何の意志もなく動いていることを当然とし、前提としている意味合いが含まれている。自然にも当然意志が働いている。このひと吹きの風にも、このひと雨にも、朝に日が昇り夕に沈むのも、打ち寄せる波の一つ一つに、何一つとして意志のない動きなどない。私が生まれるにも生まれさせる意志があり、私が死ぬにも意志が働く。勿論、生を維持するにも意志が働いている。何一つ意志が働いていないという意味での自然に、、という作用はない。それが理解できれば呼吸する一つ一つにさえも、空気を存在させている意志への感謝が込められる。生存を支え、心魂を満たしてくれる自然の存在は、その背後に犠牲的愛に貫かれた意志存在がある。犠牲的愛で生かされている私は、心情主義に立って生きるのでなければ、犠牲を食い物にするだけの獣にも劣る存在だ。

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