2013年9月3日火曜日

今日の想い 615

妻は一日おきに透析に通っている。管に繋がれたまま4時間、座ったままでひたすら終るのを待ち続ける。血液の流れを外に出してフィルターにかけるのだが、毒素だけろ過できる訳ではない。血液を分離機にかけて血液中の水分を取り出す。そうすることで、水分にふくまれるている老廃物もいくらか取り出せるという理屈だ。血液のろ過装置である腎臓の代替だが、無理して水分を取り出すので血圧の昇降が激しく、以前腹膜透析に移る前に血液透析をしていた時も何度か気を失った。6年前に移植して、その戴いた臓器が弱くなった。今回、体調が悪化して、医者が再度の透析の必要性を告げたとき、彼女は相当落ち込んだ。血液透析だけは何としても避けたいと前から口にしていた。人にもよるだろうが透析のために体調が安定せず、吐き気や眩暈など気分が悪いときの方が多いらしい。透析はそれで良くなるというものではなく、ただの延命措置に過ぎない。体調の不良を代償に、ひたすら生き延びることだけを手に入れる。透析が始まると、ソーシャルワーカーが相談を受けに来る。先ず、遺書を残したいならその手配を手伝うということ。そして、本人が死にたいと思っているかどうかを確認すること。その二点の相談に来る。アメリカでも透析に入る患者は多い。彼女のように急激な高血圧が原因というのは少ない方で、糖尿からくる腎不全から透析に入る患者が圧倒的に多い。透析に入るまでに病に翻弄されていて、既に精神的に相当弱っている。生き続けたいという力を失いつつある。だから透析という延命措置を避けて、そのままで自然死を選ぶ患者も意外に多い。透析をストップすれば1週間を待たずに昏睡状態に陥り、そのまま息絶える。それは患者の判断に任せられる。更に医者も患者に確認する。透析中に心臓が停止した場合、そのまま放置して欲しいのか、それともショックを与えてでも生き返らして欲しいのか。透析センターは、生と死の狭間にある人達が寄り集まる。一歩踏み出せば死への境界線を越える人達が、息を潜めながら座って並んでいる。み言葉を伝えたいのは山々だけれども、生きる力の弱い厭世感情に覆われた人達には、神の言葉や仏の言葉であってもその感情が先ず受け付けない。担当ナースも、当たり障りの無い短い挨拶だけかけると、あとは静かにひたすら終るのを待っている。

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