2013年9月15日日曜日

今日の想い 626

若くしてこの道に来たので全てを捧げて献身とは言っても、実際捧げるものも否定すべき思い入れもなくて、今思えば軽い選択だった。ただひとつ私に対する親の想いを蔑ろしたことは確かで、それは私にとって確かに苦しい選択だったが、私が内的イサク献祭をしたというより親が条件を立ててくれたと言った方が当たっている。しかし多くの食口は捧げるものも否定すべき思い入れも多く、この道を選ぶことは重い選択だったはずだ。更に、全てを捧げてこの道にきて、次から次へと立てられる摂理路程に投入しながら、路程を越える毎に内的な新たなステージに立てると信じて来たはずだ。しかし余りにも忙しい摂理だったために、路程を越える毎にすべきだった内的総括が、個人に於いても全体に於いても為されなかった。自分の中に節目節目で内的総括が為されなければ、一体私の中に何が残ったのか、何が復帰されたのか、何が築かれたのかがわからない。残っている内的霊的事実は確実にあっても認識できなければ何も残っていない錯覚に陥る。認識する為には内的総括が大切だ。献金。確かに献金が大切であることはわかっている。しかし献金先ず在りき、心情(精誠)が伴わなくともみ言葉が無くとも、献金が条件となって侍る生活に代えられた時代は既に過ぎ去った。献金摂理に於いて願われた姿勢は確かにあったけれども、その路程を踏み越えてきた今、確実に立つべきステージがある。それがかつての歩みのように、皆が一糸乱れず同じ行動をとって前進するものだとは思えない。勿論母の国としての願いがあるはずだが、その行動様式まで組織的に枷に嵌めるものではないだろう。全体に於いても、個人的にも、立つべきステージを内的総括によって照らし出さなければ、御父様が聖和されたことによる暗闇に投げ込まれたまま、混乱の度を深めて行くことになる。確かに教会は混乱の中にあることは否定できない。しかし問題は私の内的混乱であり、内的混乱をどう収拾するかだ。私が立てば教会は立つ。所詮信仰が無いからと言い放って、その一言で内的総括を怠れば、どうして御父様から相続したものを私の中に見出すことができるだろうか。

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