2013年9月8日日曜日

今日の想い 621

36家庭の先生の「み言の証」という本がある。原理を学べば理性的人間として当然の疑問があれこれと出てくるものだが、その先生は御父母様の御側で侍られながら、他の御方にすれば御父母様に失礼に当たると思えるような質問であっても敢えて尋ねてこられた、謂わば伺いたい本音の言葉、突っ込んだ言葉が、珠玉のように原理のみ言に沿う形で記されていて、み言葉への理解を助けてくれる。更に、こう尋ねたらこうお答えになったと言うように、恰(あたか)も御父様が私の前におられてお答えになるような印象を覚え、聖和されて寂しさを覚える中にあっても、この本を通してお会いできるようで暖かいものを覚えた。どれ一つ取っても乗り出すような関心を誘う証しだけれども、その中のひとつに「私たちが知るべき天のお母様」というのがあって、御母様が立たれておられる今、この証しは御母様に対する新しい信仰姿勢を私達が見出す意味で、皆が知るべきだと思った。御母様の重要性は今に始まったことではないけれども、私達の御母様に対する重要性の認識が、必ずこれからの歩みを実のあるものにしていくはずだ。今は天の御父様と祈祷で呼びかけるのではなく、天の父母様と呼びかける。ただ、神様を天の御父様と呼んでいたのが変わっただけだと、さして深い意味を問うこともなく天の父母様と祈祷しているけれども、それには天の御母様という認識が先ず無ければならないし、その認識があって天の父母様となる。勿論、天の御母様という正しい認識を持てる為にはそれなりの期間も必要であり、み言葉に学ぶ必要もあり、そして深く尋ねることも必要で、手の平を返したようには行かないが、この天の御母様という認識、そして天の父母様という認識がこれからの歩みに大きな実をもたらすことは確かだ。天の御父様に尋ねることで受け取ったものがあると言えるように、天の御母様に尋ねて受け取ったものがこれだと言えるような証しを、私達は数多く持たなければならない。

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