2013年9月20日金曜日

今日の想い 629

み言葉を受け入れみ旨の道に来れたのは、先祖の功労に拠るところより、御父様との、或いは御父様と縁のある先輩食口との、何がしかの縁があってのことであり、その縁に御父様の払われた犠牲の条件が供わって導かれている。この道に来れたのは先祖の功労に拠るものだと言われてきたが、勿論その部分もあるだろうが、そうであるならどうして食口は癌になる確率が多く、どうして貧困に喘ぎ、どうして苦労の多い生活になるのだろうか。功労があるなら、この世の者たち以上に元気で、この世の者たち以上に富み、誰よりも幸せな生活を送るべきではないだろうか。そうなると私達は功労の薄い者達だと言える。よく食べよく生きる人生、運勢のある人生とは言えないだろう。36家庭の先生や、御父様に直接侍る位置で歩んでこられた諸先輩家庭は、確かに特別の功労と縁があって導かれている。しかし、一世として、御父様と共に歩んできた私達の多くは、功労少なく7代を通して積み上げられた清算すべき蕩減が多いから、それ故に先んじて選ばれたと見るべきだろう。蕩減すべきもの多くてもこの道に来れない者は五万といる。その中で出会って歩めることについては確かに功労ゆえだろう。功労の少ない者が功労の多い者を伝道するとなると、伝道される側の先祖は福を貰うのではなく福をあげる事になるので伝道される時を待つと言う。だから伝道は難しい。そうなると功労を量って伝道すればいいものだが、功労以上に御父様への精誠が事態を動かすということであり、だから私達はどこまでも精誠を供えていく。愛といっても私達は感覚的なものを越えた愛の関係を求めている。真の愛の概念は一般的愛の概念からは遠く、どちらかと言うと犠牲の概念により近いだろう。真の愛の何たるかはわからずとも、犠牲的歩みの中でこそ真の愛の本質を受け取るようになる。それを思うと、下手に功労があって運勢のある人生を送らない方が、真の愛の本質に近付けることになる。功労を持てずに生まれたことが、御父様に出会うことで功労以上の功労を備えることができたと見るべきだ。そういう私達は未だ犠牲の道の途上にある。過去ほどの迫害や批難はなくとも、どれほど天の勝利圏は築かれようとも、それでも私達は犠牲の途上にある。それは犠牲をして歩んできたものが体に染みついているからだ。要するに私達は貧乏くさい。もはや犠牲の期間を終えて、投入すれば投入した分だけ結果が得られる時代圏に入ってはいるが、貧乏圏に隔離された意識のままでは富裕圏に入り込めない。意識変革には或る程度の時間が必要だろう。それでも時代は確実に変革している。めまぐるしく動く社会情勢、あらゆる価値が一日をして大きく上下する今、その混乱の中から頭角を現すのが統一の群れだ。霊的に見ると白い衣を纏った群れが地上世界を席巻していく。蕩減のない時代とは罪の清算を先送りできる時代ではなく、抱えたものを即審判される時代だ。

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