2013年9月28日土曜日

進化論

神は信じるけれども、人間創造の過程は進化論に準ずるものではないかと思っている食口は意外に多い。外的な創造に関することに限られるが、人間も霊が吹き込まれるまでは猿と同じ進化路程を辿ってきたはずだと言うものだ。み言葉は、凹凸が合わさり生殖が為されるのにそこに第三存在が介入することはあり得ないし、凹凸の愛の門がアメーバから人間まで何万種もあるのにどうやって越えることができるのかと問いかけるけれども、愛の門を越えるのに神が働いたと捉えられないだろうかと安易にも思っている。神が働いてアメーバから人間まで発展してきたという理解に何の矛盾も覚えないでいる。環境に応じながら突然変異的に発展してきたのではなく、神の意志が先ずあって発展してきたが、アメーバから人間までの外的発展路程はアダムエバから私までの血が繋がっている如く原因結果として一本の線で繋がっているという理解だ。進化論は信じないと言うがアメーバから様々な下等動物、高等動物へと枝分かれした進化の木のイメージが概念としてある。それは既に進化論だ。そこに神の意志があろうがなかろうが進化論だ。それでは人間創造の過程はなくて、瞬時に人間が創造されたのかと問い返されるけれども、勿論人間創造の過程はある。しかしアメーバから人間へと創造過程を取ったのではない。み言葉を正しく受け取るなら進化の木は完全に否定すべきだ。光、空気、水、土全ての生命要素が出揃った地球環境で生命存在が創造され始めたのではなく、生命要素の創造と同時に生命存在も創造されていった。進化論に準ずる概念だと、人間始祖までの人間創造は下等動物的人間から高等動物的人間へ、即ち消化器系だけを持ったミミズのような発展段階、それから呼吸器循環器系が付け加えられた発展段階、そして神経系が付け加えられ頭脳を備えられた発展段階へとなるのだろうが、事実は逆だ。光要素を創造されながら先ず頭脳神経系を、そして空気要素水要素を創造されながら呼吸器循環器系が備わり、そして土要素を創造されながら消化器系が備わった。だから人間創造が先ず始まったのであり、呼吸器循環器系を備える段階で高等動物の創造が始まり、消化器系だけのミミズや蛇や蛙といった下等動物は後期の創造になる。勿論高等動物も下等動物も、地球環境が完全に出揃った今の存在様相とは随分異なり、より霊的存在に近いものであったことは付け加えておかないと誤解を生むだろう。人間が被造物の全てを統合した存在であるけれども種の違いは厳格であることは、この理解でこそ成り立つのであって、進化の木として枝分かれしたのであれば猿と人間の種の違いは殆どない。

0 件のコメント: