2014年1月30日木曜日

今日の想い 698

この世で成功者と言われる財を築き上げた人達は、生命力に溢れ生活力に溢れ、人一倍の高い富への願望を持っている。ビジネス(商売)を発展させる活力はそこにある。富への願望を達成した者は地位や名誉への願望がそれに続いている。献身して全てを捧げるというコンセプトで歩んできた食口にすれば、商売の活力である一財産築きたいという願望は、献身して全てを捧げ個人所有一切持たないというコンセプトからは逆になる。献身意識とビジネス意識は所詮ベクトルが逆向きなので、教会の主管の元にビジネスを成功させることは矛盾していることになる。ビジネスではなくファンダレージングとしての托鉢が基であるなら、献金という意味で集金することはできるかも知れないが、ビジネスは托鉢でもなく献金を募るのでもない。しかし、一方で伝道、そして一方でビジネスと言うのは摂理を進める上での御父様の指示であって、献身意識とビジネス意識が相容れないというのはどうもおかしい。私達がこのアメリカで担当してきたビジネス摂理、特に水産流通ビジネスとレストランビジネスが二本柱だったが、水産流通ビジネスは知っての通り乗っ取られた形になり、そして一方のレストランビジネスは献金献金で搾り取られたカスしか残っていない。今残っている担当者の面々を見ると、年を重ねたせいもあるが、成功者や生え抜きのビジネスマン特有の覇気はない。献金も搾り取られてきたが、人間としての生命力、生活力も搾り取られて去勢されてきたかのようだ。それはそれで過去のことだけれども、これからビジネスを発展させる上でどうすべきなのか。ビジネスへ向かうコンセプトは旧態依然のままでいいのか。それともこの世のビジネスへのコンセプトに迎合すべきなのか。或いは新しいコンセプトを切り開くべきなのか。私が担当する店は店で尻に火がついた状態なのに、全体のことを考える余裕もないというのが実情だが、しかし今こそ転換期であり、今やらなければまたぞろ覇気のない、生命力も生活力もない、勿論富とも縁遠い、そんな遅々とした、日の目を見ない、ただ生き永らえるだけのカタツムリから当分脱却できない。教会として伝道を奇跡的に盛り上げ牽引していくヨシュア的人物を見つけ出すべきだが、ビジネスはビジネスとしてのヨシュア的人物が起こらなければ摂理として立ち行かないし証しが立たない。

2014年1月29日水曜日

今日の想い 697

良心的な人と良心を認識し良心の願いに応える人とは異なる。堕落人間、祝福によって原罪を無くして戴いたのだからもはや堕落人間ではないというなら、堕落性を抱える人間とすべきなのかも知れないが、人はみ言葉を受け入れようが受け入れまいが良心的な人は山ほどいる。しかしあくまで、、的であって、良心を捉えその願いに応える人とは明らかに異なる。もし良心が人間的な次元に留まるものであれば、御父様が言われた「良心は神様に勝る」という言葉は当て嵌まらなくなる。だからこそ良心革命という言葉が御父様の口から出てくるのであって、人間的良心的なものを御父様の良心と同じに捉えて意気揚々と教会に対して反旗を振りかざす者達の理解の稚拙さ単純さは、サタンの格好の使い走りになり得る。良心的な在り様にもサタンが働くなど、彼らに取っては思いもしないことだろう。エバがルーシェルの誘惑に流されていったのも、それが正しい事のように思えた、いわゆる良心的に思えたからであって、縦的関係を立てる前に横的関係に至ったことが問題で、私達が良心的に思えることであっても、それが縦的な関係性からそう思えるのか、或いは人間的、横的な関係性からそう思えるのかを問うのは、本性か堕落性かを問うと同じように重要だ。エバはルーシェルの誘惑にはまろうとする時、エバの内面の声として縦的な関係性から得られるものに従うべきだった。しかし縦的なものに蓋をして神のように賢くなれるという横的な内面の声に従った。その時点でルーシェルの誘惑は良心的に思えたから応じたということだろう。エバが自由意志をして取った判断だ。あらゆる局面で自分を正当化できる。正当化するとは良心的だと思えなければ正当化はできない。横的なものに流れる良心的に思える自分を中心に立てるのか、縦的なものを立てようとする良心を捉えようとする自分を中心に立てるのか、その違いがわからないのなら思考と感情はサタンに主管されたままだ。み言葉の鞘(さや)だけ受け取って良心の本質に向かいあってはいない。

2014年1月28日火曜日

選択という自由意志

私は御父様の血統圏に属す者として、選択を正しいものにしたい。それは行動の選択でもあるけれども、行動の原因には私の思考があり私の感情がある。よって私は思考の選択を誤りたくないし、感情の選択を誤りたくない。今の私の理解が正しいかどうかという問いは常に付いて回ることであり、私の感情についても同じことが言える。思考の選択にみ言葉が働く。み言葉が正しく受肉された分だけ思考の選択は正しくなる。感情の選択にも同じようにみ言葉が働く。そしてみ言葉が正しく受肉されているかどうかは更に私の深みに関わる私をして判断する。その深みの私、自我と言える私が神霊と授受することによって活動するのが良心であり、その良心は私達が一般的に認識する良心だとは思わない方がいい。神様はロゴスの神様であられるけれども心情の神様でもあられる。ロゴスの真意を普通受け取れないように、御父様が使われる心情の真意を受け取った者も少ない。私の思考に対して神様のロゴス、私の感情に対して神様の心情と、そのように大まかに捉えてはいるけれども、起きて内外を照らす意識の光は未だロゴスも心情もその片鱗さへも照らし出してはいない。それはまだ無意識の、夜の私の領域にある。しかし、昼の私はそれがあるという確信だけは持っている。持っているけれどもその表皮を剥いて真意に触れることもできないし、扉を見つけてロゴスの核、心情の核に入ることもできないでいる。ロゴスと心情を開く鍵は御父様が持っておられる。実は御父様は既にその鍵を遺言書として私達に差し出して下さった。差し出して下さってはいるけれども、私達は未だに豚に真珠の状態だ。私達は実体の御父様に出会い、居並ぶ私達の前で多くのみ言葉を何度も何度も語って下さった。惜しげもなく何時間も何時間も語って下さった。私達は我先に受け取ろうとしたが、場所取りにせめぎ合うだけの豚の群れだった。御父様は豚の群れに惜しげもなく真珠を差出して下さったけれども、私達が受け取ろうとしたものは真珠ではなく餌にすぎなかったということだ。その情景をイメージして思い浮かべ、その豚の群れの一匹だと自分を認識するなら、霊的事実としてさして違いはないだろう。行動の選択は堕落的である限り非常に狭い。要するに選択の余地がないと思っている。それは思考の選択が地上の次元の枷をはめられて平面的であるし、感情の選択に関してはもはや選択するものではないだろうとさえ思っている。堕落的な思考、堕落的な感情とはそういうものだ。決して戒め的に良からぬ想像、或いは怒りの感情が堕落的だということではない。成功者の話を聞けば、絶望的で危機的な状況、それは何の選択の余地もない状況から、考え方を変え感情態度を選ぶことで大逆転の成功を治めた話はよく耳にするが、そこには象徴的であっても、堕落圏を越えた本然的思考と感情を彼らは選択している。

2014年1月26日日曜日

今日の想い 696

冷たい朝の凛とした空間がいい。窓ガラスを隔てて外の景色を見れば、静かで穏やかな風景がそこにある。でも外に出てその風景の中に足を踏み入れ景色の中に入ってしまうと、突然、氷点下の大気が私の中に侵入してきて、奪われていく体温を喰い止めようと意識はそこに集中する。静かで穏やかな風景であった自然が、もの言わぬ冷たい透明な女と化して私を抱擁する。暫くは抗うが、温存していた体温の半分でも分け与えてしまえば、女は耳元に唇を近付け、囁くように冷たい世界の真実をひとつふたつと曝け出す。冷たい世界は思考の世界。感情は氷漬けにされて停止しても、思考は冷たい空間でこそ生き生きと活動し広がりを見せていく。自分は男だという観念があるから女に抱擁されたと思っているが、抱擁されたのは私の陰性の部分であって、そうなると実は女だと思っていたものは陽性存在なのかも知れない。私の陰性の部分が冷たい世界の存在と授受し、紡がれる思考はその産物だと思える。同じような体験は子供の頃にもある。中国山地の山間は意外と積雪量が多く、私が生まれ育った地域は特にそうで、豪雪の年には4メートルを超すほどだった。視界が遮られるほどに降る雪景色は灰色の世界だ。そして灰色の世界の中に佇んでいると雪女が立ち現われて私を抱擁する。その頃の私は何とも表現できない吐きそうな嫌気感が心を覆っていて、刻々と心魂が嫌気感で蝕まれていくのを覚えていた。蝕む音が次第に大きくなり、たまらなくなると外に飛び出す。そうして雪が降りしきる灰色の世界で雪女に抱かれる。体温は奪われるけれどもこの嫌気感も一緒に奪ってくれる。口は閉じたままで囁きのひとつも耳にしたことはなかったけれども、この田舎の自然である雪女の抱擁がなかったら私は遠の昔に朽ち果てている。雪降りしきる灰色の世界は懐かしいし、冬の冷たい朝の凛とした空間が今は好きだ。特に冬の朝の氷点下の空間がいい。現実に押し潰されそうになればなるほど、この空間に抱かれたいと思う。

2014年1月25日土曜日

観念の地震崩壊

私達はそれぞれの観念で生きている。観念とは内的主観であり、主観が閉鎖的なものから客観、客観から原理観へと、その観を次元移動できなければ物事の本質は見えてこない。地上にへばり付いて生きる平面的な観念で生きるだけであれば高次の霊的存在、ましてや神霊や天の父母様との関わりが殆どない状態で生きている。私達は原理のみ言葉を通して霊的な言葉を知っている。しかし知っているのは霊的言葉の鞘(さや)だけであって、鞘の中身を知るのでなければ霊的言葉も普通の言葉と何ら変わりない。み言葉の鞘だけを確認してそれが中身だと思っている。鞘だけを何百回、何千回口にしてもみ言葉の中身、本質は隠されたままだ。と言うか、み言葉に対する偏った観念が鞘を剥いて本質に至ることを阻害する。訓読するなら訓読するで、鞘を剥くという内的霊的作業、それは平易な言葉で言うと深く問うと言う事だけれども、そうした訓読をしなければ鞘だけを確認するのみで、それでみ言葉をわかったつもりになって逆に御父様から遠ざかることになりかねない。私の観念で御父様をどれ程連呼しても、御父様は姿を現わされないし相対圏には立てないということだ。使命の大きい者、天の期待の大きい者はその観が平面的次元を越えている。御父様の期待に応えたいと真摯に願うなら、自分の主観を常に壊しながら、より原理観に近いものをその都度その都度打ち立てていかなければならない。今の自分の主観に留まっているから新しい次元が見えてこない。新しい次元が見えなければどれほど現状に不満を抱き、現状を変えたいと思っても現状から逃れられない。スパイラルアップして次元上昇すべきなのに同じ次元で回り回っているだけだ。祝福家庭は御父様の血統圏にある。御父様は祝福家庭を愛されるが故に、地上の平面的次元に留まる私達を良しとはされない。今の私の主観を壊して次元を上げていくことを願われる御父様だ。そして御父様は願われることを確実に決行される。それは霊界におられても変わらない。変わらないどころか肉体を脱がれて益々自由であられ、祝福家庭個々に介入される。現状を変えたいとは思っているけれども、一方で現状に胡坐(あぐら)をかいている。現状を変えることは胡坐をかいているその床をも取り払う事だ。何かの具合で生活や現状が脅かされる局面に来た時どうするか。おどおどして悲観に暮れるのであれば御父様に顔を背けていることになる。今の私の主観を壊して次元を上げる為に、御父様が介入されようとわざわざ臨在してこられたからだ。内的霊的手術をされる為に臨んで来られた。遠いところで動いていた摂理が私達の生活空間にまで及んでいる。私は今の一触即発の局面に、御父様が神霊を従えて臨まれたのを見ている。

2014年1月24日金曜日

今日の想い 695

エジプト人を打ち殺したモーセ、カナン七族を虐殺したイスラエル民族、回教徒を弾圧したキリスト教徒、それが極悪非道のように見えても彼らは善の立場だ。民の暮らしの場である日本本土を、兵と民の区別どころか男と女子供の区別すら配慮に入れずになされた米の絨毯爆撃、さらに一瞬で広島長崎を地獄と化した原爆投下、それらの悲惨さには目を覆うものがある。私は広島県人でもあるので原爆がどれほど凄惨極まりないものかはわかっているつもりだ。しかしそれでも、ここで言うところの打った側は善の立場であり、打たれた側は悪の立場だ。逃げ惑い、そうして犠牲になる女子供を見ながら、それを善しとされた神様だ。焼けただれ溶けて流れる皮膚を晒し、それでも水を求めてさまよう死の群れを見ながら、それを善しとされた神様だ。神様の胸の内の心情がどうだったかを言っているのではない。胸の内で咎めようがかきむしろうがそのようにしてでも打つことを願われた神様だ。モラル(道徳心)を口にする。良心を口にする。しかし地上の道徳心、良心で量るべきではない天の善悪の判断がある。打つ側に晴らしたい感情があるかどうかは別にして、打たれた側は打った側への恨めしい感情を抱く。しかしここで気付かないといけないことは、犠牲という概念があることだ。立場上の悪で打たれた者は、捨てられたのではなく肉体の犠牲、心魂の犠牲を供えた者達だということだ。地上では情けもなく打ち捨てられたと見えても、霊的には犠牲を供えることで天に取られたという事実が見える。天に取られた存在は天の主管圏であり霊界に於いて引き上げられる。犠牲という概念がなかったら、神様は真の愛の御方ではなく非情の大王であり非情なる趣味で創造されたとしか思えない。道徳観念に照らした善悪判断のみを基底に置くなら、摂理史に見る善悪闘争で神様が為されて来たことは至る所で道徳を無視されており、心情の神様、真の愛の神様という言葉は出てこなくなる。人間的な者であればあるほど、犠牲という意味を問わなければならない。犠牲の概念がわからなければ摂理が前進し、展開すればするほど躓きは多くなる。御父様に躓いてしまえば後はサタンの罠に嵌るしかない。

今日の想い 694

私という存在に夜の神様の系統に由来する私があり、昼の神様の系統に由来する私もある。無意識の部分も含めて私の自己存在のすべては根源の夜の神様に由来しているが、けれども私が意識圏に於いて通常の意識が見ているものは、夜の神様の思考内容に過ぎない昼の神様の系統に由来している。しかし本来立つべき昼の神様が地上に立たなかったので通常の意識が見ているものは堕落的本性ルーシェルにほぼ由来している。(イエス様の霊的勝利圏は確かに意識圏に影を落としている。) 私はというと思考しているし、思考するということは思考内容を産み出してはいる訳だけれども、その思考内容はそのまま現実化することはない。しかし根源の夜の神様は、思考することは即ち実体存在を産み出すことで、産み出した実体存在を通して御自身の姿を見ている。ちょうど私が私の思考を通して私自身を認識しているように、夜の神様は思考内容として産み出した昼の神様を通して神御自身を認識している。夜の神様と昼の神様の相克は、産み出した本性達を飛び越えて真の愛の完全対象として人間が創造され、人間に全ての主管性を与えようとされたことからくるルーシェルの愛の反乱をして起こってしまった。産み出された本性のうち知恵の王者であった天使長ルーシェルの誤算は、昼の神様を相手にしてはいても夜の神様の思惑までにはその知恵が届かなかったことだ。意識圏は完全にルーシェルの主管に置かれこの世の神となったが、夜の神様は意識圏にメシヤを送られた。イエス様も、御父様も、夜の神様の神的本性として堕落と関係のない位置からこの地上に来られている。意識圏に取ってのメシヤの意味は、剣を投げ込む為に来たという表現にあるように、停滞して留まろうとするルーシェル本性(堕落性本性)を受け継いでいる私達は戦いを自覚するようになる。しかし戦う事によって神様に由来する私が夜の神様から遣わされたメシヤに接木して戴いた創造本性を啓発していく。ルーシェルの過ちは、彼が神様の真の愛の展開と実体化に拍車をかけて貢献すべき位置であるのに、敢えて停滞して留まろうとしたという事も出来る。要するに神の願いに立って己を引き上げようとはしなかった。御父様が摂理の展開に拍車をかけられるのに、私達が御父様に着いて行こうとすれば愛され導かれた過去の私、或いはルーシェルの偽りの愛に温存されていた私が自分の中にいて足を引っ張る。御父様に似る者となって与えて与えて与え尽くすべき位置を離れ、慰められ、もてなされ、温存される自分への執着心から停滞して留まろうとする。私達は常にルーシェルが犯した過ちを繰り返す危険性を秘めている。自由性と主管性を与えられた者としての危険性だ。しかし真の父母として勝利され、天宙に立たれた御父母様であられ、勝利圏を私達に相続され、さらに堕落以前、さらに戒めを与える以前の位置まで引き上げて下さった祝福の恩恵は地上を主管して余りある。勿論私達の意識圏に割り込ませて感染させるには私達の責任分担という課題はあるが、地上と霊界の境界、意識圏と無意識圏の境界は益々狭まり、私達は意識圏の大転換が可能になっている。真の父母という概念、さらに夜の神様という概念が地上という意識圏に現れたこと自体が天宙的奇跡だ。

2014年1月23日木曜日

主体の位置で歩んでこそみ旨

自己否定と言う事を言われ続けてきた。そして自分に対しても自己否定を押し付けてきた。堕落的な自己を否定してみ旨の願いに供える私を差出して来た。いや、差し出そうと弛まぬ努力を続けてきたけれども、供儀として取っていただく内容があったかどうかは疑問だ。私などは自己否定という言葉から醸し出されるものに悲観的感情、地獄の行脚を思い浮かべるけれども、確かに四六時中自己否定の槌を頭から打ち続けられれば死ねと言われるのと変わらないだろう。実際、献身して、み旨だと言われて従事した事柄には嫌気と悲観的感情に押し潰されそうな日々が来る日も来る日も続いた。感謝という言葉を何百回、何千回唱えたとしても、嫌気と悲観的感情の領域は狭まらない。奴隷が奴隷であることの嫌気と悲観的感情を越えることができるとすれば、奴隷から解放される日があると確信しなければ超えられない。奴隷のままで奴隷の立場を居心地いいものとするならば、それは越えたのではなく奴隷として飼い馴らされたに過ぎない。み旨としてどんな活動をしてきたかを問うているのではない。やらされたみ旨なのか、主体的位置で自らが願い望んでやったみ旨なのかを問うている。信仰年数を十分に重ねても、何年経ってもやらされ感を引き摺りながら、それがみ旨だと思って、隊列の後ろの方で辛うじて着かず離れずの食口がいる。嫌気や悲観的感情が自分の中にあることを当然の事として諦めているなら、それはみ旨の奴隷でしかない。御父様の奴隷とは言わないけれども、み旨の奴隷ではある。やらされ感が私の中から拭えないならみ旨であってみ旨ではない。み旨は私が主体的位置に立って歩むことでみ旨として立つのであり、実はみ旨の奴隷という言い方はおかしい。確かにおかしいけれども、長い内的奴隷生活が習慣化してしまい、み旨の奴隷という言葉が当て嵌まってしまうことに、時だけを無駄に重ねたと言われかねない私達の問題がある。

今日の想い 693 夜の神様、昼の神様

御父様の、夜の神様、昼の神様という概念は通常の一般認識では描けない概念であり、私達の意識圏を包み込む無限大無尽蔵の無意識圏を想定することで成り立つであろう概念と言える。私達は起きて覚醒している意識的活動と共に、寝て霊界の深みに自己を委ねる無意識的活動がある。要するに昼の私と夜の私だ。人間は霊的感性を失い霊的無知に陥ったために心魂の奥にあると言うか、越えると言うか、その領域に関しては殆ど無知だ。よって昼の私は認識できても夜の私は認識できない。夜の私は昼の私が体を休めているだけだと信じている。私という存在に対する認識も昼の認識、意識圏に限定されたものだから、昼の神様という概念は描けるとしても夜の神様の概念や関係性は描けない。私達は人類始祖の堕落という問題を神と天使長ルーシェルと人間という関係性からのみ捉えて理解しているけれども、地上世界の三角関係のように同じ次元に存在する三者の同じ次元での関係性とは言えず、神は創造主、ルーシェルと人間は被造存在、更にルーシェルは神によって創造された存在でありながら神と共に被造世界を創造した位置であり、無意識圏の複雑極まりない多次元に渡っている堕落の包括的内容を私達は殆ど理解してはいない。食口の意識的理解で納得していた立場からすれば、夜の神様、昼の神様という概念は創造以前の神様と創造を始められた以降の神様と認識する以外ないだろう。そうすると堕落も夜の神様ではなく、昼の神様が関与しているとして辻褄が合う。以前以降としなければハナニムではなくトゥルニムになってしまうけれども、しかしそこからは善悪の可能性を内包された神様ということを否定できない。意識圏で認識している昼の私を存在させている無意識圏の夜の私が活動している。存在という言葉は意識圏での概念として理解しているために敢えて夜の私は存在しているのではなく活動していると説明した方が誤解を防げる。私という存在がそうであるように、昼の神様を存在させている夜の神様が活動している。私が私という存在を客観的に見て是正する私が活動するように、神様が昼の神様を是正する夜の神様が活動している。私達は夜の神様、昼の神様をどう理解するかを問題にする以上に、御父様が夜の神様という概念を差し出されたことが、私達が次元を飛び越えて、より包括的な位置で大きく復帰に拍車をかけることができる神霊を地上に降ろして下さったアセンション祝福だという喜びを差し出せば、悟性的理解は後からついてくる。イエス様も、勝利された再臨のメシヤである御父様も、文明に夜の神様から送られてきた。

2014年1月19日日曜日

今日の想い 692

私の店は今大きな節目を迎えている。長く働いてくれた古参従業員がどんどん辞めていく。厭で出ていくのではないとは思うのだが、それぞれの従業員にはそれぞれの尤もらしい言い訳がある。言い訳がどうあれ、店としては取り敢えずの営業歯車を失う事になる。それも複数の箇所に及んで失ってしまう。もはや部分的に直せる段階にはない。そうなると店全体の根幹から手を付け、建て直す必要がある。現実に癒着している思考感情部分では突然のこの成り行きにパニック状態だが、しかし表面的な心魂の動揺がある一方で、深みに於いては店が新生復活へ向けての避けられない産みの苦しみだという自覚がある。人生に於いても大きな転換点が必ず来るように、時の流れの中で店が店として前進する為には大きな転換点、節目がある。この店も摂理との関係で出発したビジネスであるから、摂理を牽引する霊界の霊的運勢圏や御父様が主管する教会というアベル圏とリンクしている。店の状態を見ながら教会の状況が見えるし、節理を牽引する霊界の状況が感じられる。店の中心に立つ私は店が店として発展するために、即ち店がレストラン教会として、この地域の神殿として立つために、正しく店の建設(神殿建設)という信仰を立て(信仰基台)、そして正しく、客がカイン圏として教会を、神殿を喜んで訪れることができるように受け入れ態勢(実体基台)を磐石にする必要がある。私が今まで学んだことは、摂理としてのビジネスという見地に立つことであり、信仰は信仰でありビジネスはビジネスだとは思わないし、ビジネスはこの世のビジネス論理に立っていればそれでいいとも思わない。私の中では、摂理としてのビジネスを尋ねて来たし、摂理としてのビジネスを構築しているとも思っている。私が店の中で訓読も祈祷もするし、名節の供え物もすると言えば他の店の兄弟達は怪訝な顔を覗かせるけれども、コストを下げることよりも、俗に言うビジネス戦略を立てることよりも重要なことだという認識がある。そして店の中で起こること全てが摂理的であって現実問題の背後の原因的な内的霊的事実が見えてくる。このレストラン摂理として、店が新生復活して後天開闢時代を生き延びるに相応しい器を用意する為に、今やっと産道の入り口をみつけただけであり、その入り口を見据えながら戦いはこれから始まる。私は中心の位置で死生決断を先ず供えない限り、身を削り骨を砕いてでも身を細くしなければ通り抜けられない産道を前にして怖気づくだろうし、店が勝手に立ち行くことなど在り得ない。

2014年1月18日土曜日

今日の想い 691

時々思う、、、。しみじみ思う、、、。生き続けるということの過酷さを思う。天暦新年を迎えようというこの時に吐露するような言葉ではないのかも知れない。確かに、絶対信仰を供えるという意志を持ち続ける決意をした者が口にする言葉ではないだろう。それでもこの地上という、ありとあらゆる戦いが繰り広げられる戦場から、私という存在を消し去りたいと思ってしまう。そういう時の私は孤独な存在だ。この孤独な心情もまた神様が味わうであろう心情のはずだ。私という存在としたけれども、私という存在の中こそ戦場そのものだ。地上という次元の戦場を越える多次元に渡る戦場だ。私が孤独であるように、私という戦いが繰り広げられる心魂の奥で、更に翻弄される孤独な神様だ。私が生き続けることに辟易し、その過酷さに心身が削られ続けるように、神様も真の愛の存在として存在し続けることに辟易し、真の愛を捧げて犠牲になる主体の位置の過酷さに本性相と本形状が削られ続けてきた。ある者にとっての神様は全知全能の神様なのだろう。また、ある者にとっての神様は厳しく恐ろしい神様なのだろう。またある者にとっての神様は慈愛溢れる優しい神様なのだろう。しかし私の神様はそんな側面を見せたことはない。私の神様は寂しく、孤独で、弱みさえも見せられる神様だ。それが神様の本当の姿だとは思わないし神様の心情だとは思わない。神様の心情はそんな側面を見せる更にその奥で湧いている。私が感情の存在であり、感情はより自己中心的な表れをすることを私はよく知っている。しかし神様は心情の存在であられ、心情は真の愛、即ち完全なる犠牲、絶対犠牲の表れ方をする。神様は過酷であられることを敢えて求めておられる。私に真の愛が届くまで過酷であられることを求めておられる。そういう神様であることを私に訴えることもなく、私に無視される神様であることも当然のように、、、。

2014年1月16日木曜日

今日の想い 690

御父様と御母様が一緒におられる御前でしか御父母様にお会いしたことはなかったので、御母様だけがおられる御前では戸惑いを隠せなかった。ビデオが終わり御母様がお話を始められても、私は顔を上げることができないまま、うつむいて筆記するに留まっていた。どんなに怒られても御父様には許しがあると思っていて、怒られることも喜びだった。しかしお一人になられた御母様は始終笑みを絶やされず、丁寧にゆっくりと言葉を選ばれて話されながらも、それだからこそ責任使命をはっきりと受け取らなければならない厳しさが空気に滲み出ていて、私はというと呼吸もまともに出来ないでいた。そして緊張感は急速に高まりその場にいることの恐ろしささへ覚えた。私は御父様の子女ではあっても、御母様の懐の中には素直に入れない自分がいることに気付いた。2011年、3年前の同じ頃、やはり同じようにラスベガスの平和宮に私はいた。御父様の怒りの洗礼を受けていた。触れられた中心事項は水産ビジネスの事で、その場でクジ引きさせられて新しい任地を決定され新しい出発が為された。私はその場にいたものの直接的な立場になかったから御父様の指示に対しては客観的だった。そうして今同じ場所に私はいる。御父様の御聖和、そして基元節を経て、以前とは全く異なる状況下でこの場に座っている。そうして今回の私は直接的な使命に立っている。しかし御父様と異なり御母様は直接的な指示を出されない。人事を発表されるでもなく今までの責任を追及されるでもない。主要な責任者から状況の説明を受けられただけで、そして補足的な言葉を伝えられただけで、後は私達に任された。ひとつ念を押されたことは、責任を取るなら実績が必要であることと、そして責任を取る面々を御母様ははっきりと覚えられたこと。今までにない緊張もし、恐ろしさも覚えた私は、もし私が御母様の懐に入って行けるとしたら責任を取る者となり、実績を残す者となることだと察した。そうして逃げることが出来ない追い詰められた自分、御母様という産道を通り抜けるしかない自分であることを理解した。もはややるべきことをやるしかないという、この頭を産道に押し込めなければならないことを理解した。もがいて苦しんでそれでも躊躇して、帝王切開的な無理くり新しい私が取り上げられるのか、自分で産道を見出して、この地上世界に対して主体的主管的な新しい私を産み出すのか、今回の平和宮訪問はその選択を迫られている。

本当の私は後追いでやってくる

復帰摂理歴史からみれば、先ずカイン圏が現れてきて、それから遅れを取ってアベル圏が現れることがわかる。カイン(長兄)が先でありアベル(次兄)が後だ。復帰摂理に於いてサタンが先行して原理型の非原理世界をつくり、遅れをとって神の原理世界がそれに取って代わる。人間個人に於いても現実というカイン的私があって、より神の理想に立つアベル的私が後を追う。そうしてアベル的私が主体となってカイン的私を引っ張っていくのでなければ私に対する復帰は何処までも延期されることになる。現実は堕落性のありふれた私であるけれども、少しでも堕落性のない、より神の理想に立つ私を追いかけながら生きている。現実の私は内的霊的無知の立場であり、現実という飲まざるを得ない苦い薬に顔を背けて苦しくジタバタするけれども、より内的霊的無知を克服した将来の私はその良薬の意味を知り、より神の理想の私に近い立場に立つ。本当の私は現実に立つ今の私ではなく、将来の私こそ本当の私だという見地に立てば、理想が現実を引き上げる私になれる。現実を甘受しながらも理想に目を輝かせる私になれる。そういう意味でも常に理想を仰ぎ見る私達にならなければならず、私達はその完全な理想の姿を御父様という存在で示されていて、御父様を手放さない限り神の理想に向かっている。現実を悲観する私に留まる限り、私に希望はない。現実がどうあれ、理想を追い求める私を諦めない限り私は神と共にある。本当の私は後追いでやってくる。今の私はみ言葉がわかっていない。内的霊的無知だ。しかしみ言葉を受肉し無知を克服した私は確実に後追いでやってくる。現実と理想の大きな乖離に溜息のつく思いだけれども、神様から与えられている理想に向かう私の心魂の奇跡的力を思い知るときが来る。必ず来る。本当の私は後追いでやってくる。

セドナを訪ねる

往復9時間かけて始めてセドナまで行って来た。ラスベガスは一月、二月も暖かいが、それでも夜が明け始める朝方はさすがに寒い。朝早く集合をかけられて冷え切ったバンに乗り込む。もう少し着込んで行けば良かったと思うがそれも最初のうちだけで、明けて日が昇り始め、直接受ける日差しは実に暖かい。単調な直線道路を走りながら、眺める晴れ渡った青い空は気を休めるけれども、ラスベガスの町が途絶えれば、走れども走れども、緑のない平地と禿山が続いていささか気が滅入る。そんな殺風景な景色を見ながら4時間以上も走り続けて、やっと緑が現れてきた。禿山から岩山へと風景は変わり、東西に伸びる大陸横断道40号線から南下して暫くたつ頃には、ごつごつしたその岩山も滑らかな赤レンガ色の大きな岩山に代わってくる。南下したせいなのか、高度を下げたせいなのか、それとも暖かく熱を帯びやすいこの岩山のせいなのか、温度は上昇して初夏の様相を帯びてきた。青い空と赤レンガ色の岩山。写真に見たセドナの光景が広がった。セドナの気運の圏内に包まれた。高台から見るセドナの町は明るかったし、別荘と言える家々が盆地を囲む様々な奇岩の麓に佇んでいた。連れの兄弟はこんなところで余生を送りたいと口にしたし、皆もそれに頷いた。私と同じように、ここまで肉体を酷使して歩んできた疲れが頷きを起こさせている。御父様も立ち寄られたこのパワースポットの地、セドナ。この世のものとも思えない巨大な奇岩が立ち並び、背景のダイレクトな空の青と岩の赤の見事な色彩のコントラスト。非日常の異次元的な世界を見るとなると、ここは確かに霊界の一景色なのかも知れない。パワースポットならではのエネルギーパワーを受け取るのだろうけれども、それは肉体の生命エネルギーなのか、精神的霊的エネルギーなのか、それとも心魂の安らぎを受け取るのか何なのか。観光気分で行くなら、観光気分を超えるものを受け取ることはないのだろう。多くの課題を抱えて生きているけれども、それを越えようとする意志より、それらの事を一瞬でも忘れて楽しみたい観光気分の方が勝っていることは確かだ。それでもこの地を訪れたという事実があり、その事実の内的霊的意味は後から必ず姿を現すはずだ。パワースポットセドナの地。本当のパワーはこの地を離れて、必ずや天と霊界に通じる運勢を与えられたと信じ、それがどういう形で花を咲かせ実を実らすのかを尋ね続け期待し続けるところにあるはずだ。祝福の恩恵が終着点ではなく始点であるように、セドナの地で気運を受けるのは、何かその場で戴くご褒美のような御利益的終着点ではなく、これからの多難な歩みの中で、それらを越え得る力をあの時あの地で受け取ったものだと見出すときに初めて理解し納得するものだろう。御母様にお会いしたからセドナの地を訪ねることができたのか、御母様の願いに応える自分になれるようセドナのパワーを受け取ることになったのか、そんなことを考えながらも兄弟達の談笑に付き合いながら帰路に着いた。



2014年1月12日日曜日

2014年経済動向

株価が跳ね上がっている。DOWは史上最高値をつけて16000ドル越えとなっている。資産バブルの発生、崩壊、金融危機というサイクルはバブルである以上確実に起こる。バブルであるかどうかは実体経済と金融の乖離が大きいかどうかで決まってくる。実体経済は物価であり物価は現実だ。金融経済は将来的希望的価値であり、それは願いであり理想であり更に妄想だ。理想の範囲であればまだしも、妄想圏にはいると完全にバブルだ。バブルをバブルでなくすためには現実を妄想である希望的価値にまで膨らませなければならない。資産と物価を連動させればバブルとはならないのだが、物価も勿論上がっているが、株価の跳ね上がりとは比べ物にならないのでバブルだ。それも巨大バブルだ。アメリカはITバブル、不動産バブル、そして株バブルと続いているけれども、ITバブル崩壊の時その影響を実体経済に及ぼさないようにする為、即不動産バブルを発生させてそこにITバブル崩壊のつけを吸収させた。よってITバブルより不動産バブルの方が大きい。更にサブプライム問題で不動産バブル(住宅バブル)が崩壊する時は、政府はドルの大放出に打って出て天文学的な負債を穴埋めした。と言うか蓋をしておいて見えないようにしている。金融緩和策は今も続いていて膨大なドルを投入し続けているが、行き場をなくしたこの膨大なドルが株価に流れ込んできて、その結果が株バブルになっている。よってITバブルのつけを不動産バブルで肩代わりさせ、しかし本来バブルでつけは片付かず更なるつけが増したのを株バブルに負わせている。ようするにバブル崩壊と金融危機を三段階バブルで後回しした格好になっている。この株価バブルはフルスロットルバブルだ。株価高で資産価値の上昇だけが目に入っているが、一方の資産は一方では負債であって持っている資産はどこかの誰かが同じ量の負債を抱えているから資産であり、負債のない資産はなく資産が上昇すれば負債も大きくなっている。景気は気分というベクトルであって資産価値が買いに動いていれば上向きで膨らみ、売りに動けば下向きで萎む。売らなければいいと言うことだが、売らない限りは金融という妄想のままで、売ってこそ実体として現実化できる。だから必ず売りの局面に出る。売りの局面に出たら一気に下向いて萎む。それが経済の原理原則だ。このフルスロットルバブル、巨大オバケバブルの売りの局面は必ず年内に起こる。経済が奈落の底に落とされる。

2014年1月10日金曜日

天一国通貨

原始キリスト教社会では宗教と政治と経済は分化されておらず、キリスト教指導者の指示がそのまま政治体制であり経済運営でもあった。しかしキリスト教社会も氏族社会、国家社会へと版図を広げていくと先ず法王と国王と二分化されるようになり、そして三分化されていった。統一教会も同じように、先ず原始キリスト教社会的な、分化されておらない時期があり、氏族社会的時期を経て国家社会的な三分化を見るようになる。清平の霊的指導と教会運営とが先ず分かれているが経済はというとどちらもまだ一体不可分の状態にある。しかし版図が国家的、世界的になるに従って霊的指導と運営と経済は分化されるようになるだろうし、最終的には三権分立からメディアと銀行を加えて五権分立体制になっていく。しかし国家的発展段階の極めて初期であって混沌期を未だ越えていないことはそうだろう。それに乗じてグループの問題が起こった訳だが、意識ある者達によって収拾され、混沌期を越えて一段高い安定期に入っていくはずだ。私達はキリスト教社会の発展史を研究しながら霊的王国がどのように為されていったかを精査し、その上で実体の天一国を建設していかなければならない。しかし2020年に向けて御母様と一体となって歩みを進めてはいるけれども、実体天一国のブループリントがどんなものでどういう経過を辿って辿りつくのかは何も知らされてはいない。知らされていないから混沌期でもあるのだが、歩みを止めないということは言われ続けていることであり、解からなくても歩むということが条件的にも必要とされている。しかし国家体制への道筋が天から降って与えられるのではないだろうから、私達の責任分担に於いて段階を踏んでブループリントを作成し、道筋を創造していくことになる。そしてそれは、人材創造と経済発展の両輪に拍車をかけることで実現できることは、キリスト教の霊的王国が広がっていった歴史の事実を見れば明らかだ。要するに資本主義と帝国主義によるものだが、資本主義の種として金証券の発明がある。金証券によって資本経済が成り立ち、資本経済によって爆発的なキリスト教経済圏が世界に広がった。今私達は特に基軸通貨のドルに価値を置いて、シーニョレッジ(通貨価値の上げ下げや通貨増しによる益)をアメリカとそれに倣う国に任せているけれども、それではいつまでたっても経済を主体的位置で把握できる訳ではない。天一国としての経済圏を広げる為には通貨がいつかは必要だ。別にそれは貨幣でも紙幣でも或いはネット通貨でも構わないが、通貨としての価値を持たせる為に特別の何かと兌換できる通貨となる。ドルが金兌換であったように金を保留していくのもひとつだが、それでは既存の国の域に留まり世界経済の主要的通貨にはならない。教会の条件が満ちるなら必ずや金鉱か金鉱を越える資源鉱(それは物質ではないのかも知れないし、知的財産かも知れない)を用意されるだろう。その半無限の価値を得ることができれば通貨発行が為され、一気に世界経済圏をその通貨によって創造することができる。ONE FAMILY UNDER GODの御父様の理想を本当に実現する為には爆発的経済発展の種は必ず必要で、それを用意されておらない御父様ではないと思うのだがどうだろうか。

2014年1月9日木曜日

今日の想い 689

原理のみ言葉は、相容れない宗教と科学という課題を統一できる新しい真理だ。歴史はメシヤを迎える為の基台作りとして時を積み重ねてきたが、メシヤは本来統一された基台の上に迎えるのであり、メシヤを迎えて統一するのではない。すなわち統一する為のメシヤではない。個人に於いては心と体が統一されてメシヤを迎えるのであり、メシヤを迎えて統一するのではない。しかし統一できる真理と神霊も地上にはないので御父様はメシヤとして立たれる前段階で原理のみ言葉である新しい真理を差し出された。食口達は自分はメシヤを知って迎えたと思っているけれども、しかし心と体が統一されていないのにメシヤを迎えようがない。確信と思い込みは似て非なるもので、御父様を私を救って下さった御方だという認識が確信なのか、或いは思い込みなのかは天国と地獄の別れ目だ。思い込みで安心しきっている食口は羊族ではなく山羊族だ。あなた達は心と体が闘っていることさへも知らないという御父様の嘆きの言葉は、御父様をメシヤとして迎えるに至っていない私達だという意味だ。事実でもない霊界様相をイメージして、食べるのも困らず面白おかしく暮らす勝手なイメージとしての霊界に明日に死ぬとしても行けると思い込んでいる。そんな御利益的な信仰を望まれる御父様でもないし、そんな自己中心的な霊界でもない。あなた達が今霊界に行ったら間違いなく地獄行きだと忠告される言葉をどう捉えているのだろうか。私達は焦る思いがあって当然だ。何故なら私という個体の心と体も統一されていないし、本当の意味で御父様を迎えてもいない。心と体が闘っている個人を投影する社会も国も統一されてはいないし、実体の天一国の完成も見ていない。御父様は口に太いチューブを突っ込まれて、それを取ろうとしないように手を固定されていたと聞く。イエス様は磔刑を立てて受けられたけれども、御父様は横になって磔刑を受けられたようなものだ。その御聖和の在り様が本当にメシヤとしての御父様の願いだったのだろうか。御聖和の事実と経過と在り様を内観して見て、最後の最後に霊的に眠っている私達を起こそうとされた御父様ではなかったのかと思えてならない。もう少しで天暦2014年が明ける。新年への準備が為されようが為されまいが時は確実に流れ2014年は確実に明ける。私達に託された御父様の願い、私達を救いたいそして全人類を救いたい、その重い想いを受け止めて再出発するのでなければ今までと同じように無駄な時が流れていく。私達は御父様をメシヤとして迎えなければならない。その為には心が主体の位置で体を統一させなければならないし、宗教が主体の位置で科学を統一させなければならない。み言葉理想を掲げて、政治と経済をその理想に合わせてひとつにしなければならない。その中心的主体的位置に立たないのなら祝福家庭は何の為の祝福家庭なのだろうか。

今日の想い 688

概念かイメージか。概念は本質的だけれどもイメージは幻想的だ。幾重にも重ねられたイメージを壊しながらより本質的な概念へ近付いていく。イメージをどこまでも壊さない限り概念は現れない。私の周囲にある現実は描かれたイメージを重ね着していて、本質である概念を見届けようとすればイメージを一枚一枚剥いていくという、そんな内的霊的作業が必要になる。重ね着しているから見るによく触れるに優しい体験イメージが、本質が剥き出しにされて概念の正体を見るとなるとイメージとは正反対の冷たい概念であることがよくある。或いは逆に、人生では避けて通りたい体験イメージが実は自分の存在にとってなくてはならない必要概念であったりする。とにかくイメージは私の思考と感情で紡がれているが、思考を壊し感情を否定し、新たな思考と感情を再構築して概念と言う本質に近付いていく訳だが、特に感情は生きる生命活動そのものなので感情を否定していくことは堕落した自分を壊していくことに等しい。概念、それはロゴスといってもいいけれども、ロゴスは言葉の本質だ。最初に言葉があった。即ちロゴスという言葉の本質があり、ロゴスによって全ては存在している。自分はそれを理解の取っ掛かりが持てる概念としているが、それはロゴスを理解するのは霊界存在になった時だと思っているからで、正確に言うとロゴスイコール概念ではない。イメージに対してどちらもより本質的であって、ベクトルの向きはロゴスであっても概念であっても同じだから、今の私の認識度合いからすれば同じことになる。前置きが長すぎたが、現実である私の周囲のイメージは幻想的だから変わり行く流動的でもあって一貫していない。同じ事柄と思えることでも以前のイメージと今のイメージは異なるし、また未来のイメージもまた違うはずだ。幻想的で流動的だからこの世は仏教でいう色の世界であり、喜怒哀楽という感情世界だ。この世の色に溺れ、喜怒哀楽に翻弄されているうちは概念は掴めない。しかし色を味わい、喜怒哀楽を味わうのは、内的霊的には主体的位置に立っていて、見えなかった概念を宝探しのように見出して霊的本質として天に捧げている。神様は全ての創造を為されたけれども、神様に取っての創造の意味は、抱えていた全ての宝を与えるために投げ出したと言える。持てる愛の全てを投げ出された。そして何も無い神様になられた。そして子である人間が一つ一つの愛の宝を見出して天に捧げるなら、持てるものの何も無い神様であるから神様にとっては人間が神様の救いであり神様を存在させる存在でもある。神様が滅べば人間も滅びるけれども、人間が滅びれば神様も滅びてしまう。人間の創造は本来神様と一体不可分として創造された。み言葉でいう神様と人間の父子関係はそれほどに強く、離れようにも離れられない関係性がある。しかし堕落して、神様の元を遠く離れてしまった子女である人間を想って、慕い焦がれて、神様はどれほど悲しまれたか。どれほど悲しまれて存在を否定されるほどの青息吐息の中に沈まれたか。ロゴスの神様であられるけれども、御父様が私達に教えてくださった最大の救いの言葉は、神様は心情の神様であられるという言葉だ。私が自由気儘に放蕩三昧の人生を送り、罪と悪に塗れた人生を送って地獄に落とされるとしても、この心情の神様であることをを知った私は心情ゆえに救われている。心情ゆえに地獄も天国だ。色の世界、喜怒哀楽の世界が地上なら、霊界の天国は煌びやかな心情世界だ。イメージを剥いて壊していくと概念が現れる。しかし概念、言葉の本質は、色もない喜怒哀楽もない冷たい概念や数式が忽然と存在するのではなく、それは愛の本質、心情が概念の心、性相として現れる。

今日の想い 687

昨年、平成の大遷宮という言葉が日本中に響き渡り、神道や神社に関心のない者達までも言葉に踊らされて参拝し、初めて聞く遷宮の響きに有難みを感じた。実は私もそんな一人で、この年になってやっと日本の民族魂を見ようとしている。み言葉を聞くことで誰も知らない天地の秘密を知り、摂理歴史を知っているという自惚れと驕りに酔って、実に傲慢な内的姿勢を食口皆に見たはずだ。勿論、神社は結婚式、お寺は葬式という習慣化された儀式以上のものをそこに見ようともしなかったし、形骸化された宗教をこれ見よがしに鼻で笑っていた。自分が日本人であるにもかかわらずだ。今にして思うと何とも非礼を働いたものだと呆れ返る。そういう意味では私も、日本民族と国の恩恵にしっかり与りながらも批判し否定すると言う、左傾集団と同じ穴のムジナの原理坊やに過ぎなかった。出雲大社は私の田舎からなら1時間もあれば行くことができ、日本で歩んでいた時には意識もしなかったのが、今は帰国する度に年寄りを連れて参拝している。田舎の山あいから日本海側の麓に下りれば分社もあって、私のいない年始の参拝はここで済ましているようだ。アメリカ人事になる前は名古屋で歩んでいて、当時の責任者の実家が鮮魚店を営んでいた三重の津に暫くいて手伝っていたこともあり、昨年の式年遷宮が行われた伊勢は目と鼻の先だったが、やはり意識もせず行きもしなかった。日本食口が、日本国の基と関係があるはずの神道や神社に対して、どの程度関心があるのか、日本で歩んでいた頃の自分と同じ程度なのかどうか、その辺もよくわからないが、意識するしないに関わらず血で繋がれて来た日本の民族魂の影響を受けているのは間違いない。日本の霊的影響圏から少し遠ざかる立場で歩んでみることで初めて、その血の流れている自分であることを実感せざるを得ない。それを無視して、どれほど原理用語で自分を立てようとしても、原理概念を完全には理解し得ない、民族魂に影響された自分が存在している事実は免れ得ない。勿論、それが悪い作用を及ぼす場合もあるけれども良い作用も及ぼし、善に寄与出来るものを持っている。自分という成り立ちをその奥の深みまで見通すことで霊の本質、精神の本質部分から再構築すべきだ。日本神話に限らず世界のいろんな神話は、中心的ヤハウェ神話との共通部分もあり異なる部分もあるけれども、その辺を問い探っていくと意外な知恵が隠されているはずだ。そしてその探っていく内的霊的力は御父様に繋がることで与えられているはずだ。み言葉を知り、御父様を迎えた統一食口であればこそこの世の人々には見通せない遷宮の見えない意味、神道で繋がってきた日本民族の見えない霊的真実が見通せて、その側面からも摂理に大きく寄与できると思っている。

2014年1月8日水曜日

今日の想い 686

復帰摂理時代(旧約時代)と復帰摂理延長時代(新約時代)は、メシヤを迎える為の基盤、象徴献祭(信仰基台)と実体献祭(実体基台)を立てる為の路程であったが、それでは一端メシヤを迎えてしまえば必要のないことなのかというとそういう事ではない。同時性を説明することでメシヤを迎える為の歴史であると原理で証明されることについても、それで御父様がメシヤであると認識できればそれで事足りるという事ではない。御父様に正しく出会い、正しく侍っていると、食口誰もが信じているけれども、それは私達の勝手な思い込みであって、正しく迎えて侍って一つになる為には常に問い続けなければならないし、常に否定し続けなければならない。信仰が或る段階に留まってしまえばそれは信仰ではなくなる。歩めば歩むほどに無知をより深く自覚し、歩めば歩むほどより深いものを壊さなければならないものだ。御父様は勝利されて旅立たれたのであり、後は私達の責任に於いて地上天国を完成させるだけだと、随分大まかに、と言うか勝手に捉えているけれども、摂理歴史を見れば、神とサタンの間で信仰基台と実体基台の条件の奪い合いがどちらも紙一重すら譲らずに為されて来た結果を見るのであり、御父様が勝利されたからと言ってこれからの歩みが単純明快なものとして地上天国が為される訳ではないだろう。複雑怪奇な教会の裏事情は見ず触れずで、私は私の信仰路程をまっしぐらに歩むだけだと、そんな随分かっこよさそうて清々しい気分で歩んでいる者達は、意外とグループ派やその関連で歩んでいる者達の中に多い。悪びれることもなく、何の負債もなくグループ派のものとなった関連会社で働いている。食口の多くは御父様に繋がるみ言葉が差し出されているという認識をした時点で信仰は完結している。先にも言ったように自分の中で完結させてそこに留まるならそれは信仰とは言えない。み言葉を何度も何度も繰り返して読むのもいいけれども、問い続けることを忘れないでほしいし、否定し続けることを忘れないでほしい。それなくしては朝に夕に御題目を唱える何処かの宗教と変わりは無い。仕事も生活も習慣化しているけれども、それに合わせて内的な感情も思考も習慣化してしまい、心情とか精誠とかと言う言葉の存在は知っているし、使ってもいるけれども、実際はその言葉とは関係のない内的霊的位置で安住している。カナンの地に入ったイスラエル民族は、カナン七族を滅ぼさないでそのままにしておいたので、彼らから悪習を習い偶像を崇拝するようになってしまい、その結果、彼らの信仰に大きな混乱を引き起こした。私達は滅ぼすべきカナン七族が周りにいるのではなく、私達の中にいるのであり、私の中にいる。私が私の内面を分別する目を失い、分別力を失うことが、私の中に御父様を迎えてはいないことの証明になる。教会が教会内部を分別する目を失い、分別力を失えば、教会の中に御父様はおられないことになる。複雑怪奇に見える御家庭の事、教会の事のように見えても、その現実の背後に神とサタンの遣り取りがあり、そこを見る目を持たなければ誰が摂理を引っ張っていくのだろうか。食口は本当の意味で御父様を迎えなければならない。問い続け、否定し続けて、真の御父様を真に迎えなければならない。

2014年1月5日日曜日

霊連世協会として立つ為に

注目すべきは誰が世界を制するか、誰が天宙を制するかだ。教会とグループ派との戦いが法廷を中心として繰り広げられてきたけれども、既に戦いの場は次元を上げている。彼らにすれば裁判所の棄却に喜び、風向きが彼らの優勢になびいたかのように安堵しているけれども、この世の決定事項が他次元にわたる霊界に上告されれば彼らの論理は通用しない。通用しないどころか存在基盤さへも否定されかねない。霊的無知な彼らはその恐ろしさを未だ知らずにいる。御父様は霊界の各次元に於いて勝利宣言をされている。地上に於いてその都度その都度為されてきた勝利宣言が一体何なのか、本当の意味で理解するには至っていない食口達だ。それは霊界がわからないからわかりようがない。現実を見れば、世界どころか国さへも復帰されず、一人、また一人と未だに伝道しなければならない状況であって、そのどこが勝利なのかわからないだろう。この法廷闘争も、彼らの霊的無知、御父様の勝利基盤がわかっていないが故の彼らの行動から引っ張り出されたのであって、意識世界に於いては教会側もグループ派もさして変わりは無いのかも知れない。しかし本当の裁きは法廷ではなく霊界で為される。私たちの意識世界がすべてだと思って生きているが、膨大で荒涼たる無意識世界のごくごく一部に意識世界は存在している。今、地上界と霊界がひとつになったという感覚があるだろうか。霊界が近くなった、その位の感覚は食口なら誰にでもあるのかも知れないが、やはり依然として地上界は地上界であり、相も変わらず地道に伝道する以外ないと誰もが思っている。それでは一体誰が世界を制するのか、誰が天宙を制するのか。私達は主体の位置で権限をもっていると言いながら、やはり一人一人伝道しながら夢物語のように世界復帰の話をし、天宙復帰の話をし続けるのか。意識世界を制するのは依然として堕落世界の旧態依然たる国であり、権力を手中にしている組織だ。彼らが持っている地上権限を奪えないなら、法廷で教会が勝訴しようが敗訴しようがどうなるものでもない。霊界を完全に把握されておられる御父様が地上権限を誰に与えられるのだろうか。霊連世協会が中心となると語られているように教会が霊界と肉界を連結した位置に立たなければ教会が霊連世協会とはならない。霊界を連結させる為に天理と天道によって摂理を進めなければならないのであり、教会が別れたのは分別の為だと認識すべきでこの問題を曖昧にしてお茶を濁すに留まるべきではない。この問題を曖昧にすれば教会は更なる分別を迫られる。それは本当に生きるか死ぬかの分別になるやも知れないし、徹底的に教会からサタンを排して天宙の中心に立てようとされる。即ち、霊連世協会を立てようとされる。教会内からサタンが完全にいなくなって、そうして始めて世界を制する者が教会内から出る。或いは教会によって権限を与えられた者が世界を制する。一人一人を伝道する為に精誠を供えていく。それは勿論大切なことで否定されるものではない。しかし一方で地上世界の権限を持っているトップから変えていく意識は我々には必要ないのかと言うと、今はその気概を持つ意識が教会内に育たないと言った方が的を得ている。教会責任者はこの裁判問題の事実を食口に対して口籠るべきではない。食口を本当に愛するなら、そして信頼するなら、更に世界を制する気概を持った食口に育てる為にも口籠るべきではない。

2014年1月4日土曜日

今日の想い 685

霊界のことが本当にわかっていない。同じ霊界という言葉を使っていても、霊界の真実と彼らが認識する霊界が相容れないなら、頑なに霊界はないと信じている者達と変わらない。いや、霊界を信じていない者達よりも更に性質(たち)が悪い。善霊だと思っている存在が実は悪霊であり、それを知らないまま思い込みのままに突き進む。「御父様が霊界に逝かれて、地上では解かり得なかった真実を霊界では知っておられるはずだ。」と恥ずかしげもなく言ってのける彼らの霊界認識がどれほど稚拙なものか。なるほど彼らの言う良心は、知ることのできなかった真実を霊界に逝かれることで知っておられるはず、という解釈の上に立つことで辻褄が合うらしい。その解釈に立つなら、地上は嘘偽りがまかり通る世界であり、霊界を知りつくした御父様であっても見抜けない嘘偽りがあるが、彼らはそれを見抜いて、真実を知っているという位置で御父様の上に立っている。そういうことになる。甚だしい驕りがそこにあるが、驕りを驕りとも認識できない霊的感性の欠如を彼らの中に見てしまう。所詮彼らの信じる御父様は一宗教指導者に過ぎない限定的な御父様であって、神様と一体となられ天宙の真の父母であられるというのは、彼らにとってはただの冠詞にすぎないらしい。もちろん御父様も、肉体も感情も持たれた人間であり人間的な側面のある御父様であられたことはそうだが、しかしそれはあくまで人間的な、更に言うなら堕落人間的な私たちから見てそう思えると言うだけのことであって、私達は判断基準を私に置いて御父様の判断をどうだこうだと言える立場にはない。真実か嘘偽りかという善悪判断を取り敢えず当て嵌めようとするけれども、私達は先ず堕落人間という原初の偽りから出発した偽りの血統の存在であることを忘れてはならない。しかしどこまでも心情を立てられた御父様であり、偽りに向かう流れのものから真実に向かう意志と可能性を私達に見ようとされるのであり、その機会を与えられて指示命令を出されたし、待てるだけ待たれたはずだ。御父様に、できるのできないの、やるのやらないの、と問われた時、ハイと答えながらも曖昧なものを含みながら、しかし先ず偽りの存在である私達を信頼して下さったのであり、御父様のその信頼は他の者がとやかく言い、おかしいのどうのという筋合いのものではない。そこに割って入って、御父様は騙されているから偽りを見抜いた自分が御父様に代わって正すというのは、御父様の相手への信頼を無視して心情を逆撫でしている。彼らにとっては善悪は絶対的であるらしく、摂理摂理で相対的に変わっていくものだという認識もなければ、さらに、善悪判断を超えて心情を見ようとされる心情主義が御父様であり、霊界の事実として心情価値、真の愛の価値をして動いていることがわかっていない。彼らが言うように、御父様ですら騙されて正しく対処できなかった現実があると言うなら、彼らが悪霊から騙されていないという根拠は何処に置いて誰が証明するのだろうか。

2014年1月2日木曜日

天運を得て新年を迎える

私は、私の中のサタンを知っている。私の中の恐れと不安こそ居座るサタンのひとつの表れだ。この恐れと不安がみ旨へと駆り立てる私を阻害している。この恐れが砕け散り、抱えているものを奪われたくないという執着から解放される瞬間もあるにはあるが、台風一過となり試練を一山越えてしまうと、居心地良かった堕落的平安に落ち着こうとする自分がいる。その自分は明らかに主体の位置で開拓する私ではなく、既に存在する基盤におもねるという、対象の位置で安らごうとする私だ。既に存在する基盤は多分に堕落的だ。私達は地上という現実の中に存在しているのであって、そうであれば堕落社会で培われた存在基盤に既に立っている。しかし私が御父様と一つになり、主体の位置で堕落社会に対するなら、そして堕落社会が対象の位置で主体の為に存在するなら、堕落社会は私を通して神様に繋がる活路を得る。個人にしろ家庭にしろ、国家にしろ世界にしろ、八段階として上っていく各段階で堕落社会と関係している。しかしどの段階に於いても私は堕落社会におもねることなく、主体の位置で神側に引き込んでいく私になることで、私は地上に於ける願いを全うしていく。だから私は堕落社会や文化におもねっているのか、或いは主体の位置で引き込もうとしているのか、そこに私が神様に属する者なのかサタンに属する者なのかの一線を引いている。私の中の恐れや不安は堕落的平安におもねるサタン的感情だ。私はその感情を捨て去ってこそ、新たな次元に於ける出発の為の祭壇を築いたことになる。正直な事を言えば、今のビジネス形態、店の在り様では周りにおされてしまって先が見えないところまで来てしまった。平安の場所が脅かされ尻に火がついた状態だ。もっと早くに事に対するべきが延ばされ延ばされ、そこが私の堕落人間の堕落人間たる所以だ。しかし何事に於いても時がある。いい時があり悪い時もある。今のこの時こそ天運が共にある絶好の機会であるという運勢の匂いがする。この時を逃さず、一気呵成にやり遂げれば、私も店も全体も、新しい次元に乗り移れる。