2007年2月11日日曜日

意識改革

献身という言葉がある。自分は献身者だと思ってやってきた。では献身者とは?全ての財をささげる、中心者の判断に全てを任せる、み旨ができる最低限の生活、等等。献身者というひとつの捉え方が皆にもあり自分にもあった。しかしその捕らえ方はアメリカに来て崩れる。崩れて良かった。献身者という言葉は別としてそういう捉え方やくくりは本当の献身の意味からすると幻影に過ぎないだろう。そういう捉え方に自分を合わせることで自分は良しとされた、と勘違いをしてしまう。全てを捧げ、言われるとおりにし、やるべきことをやっていればまっとうな信仰者だと安心感を覚える。本当は違うと気付いていても周りの兄弟や状況に合わせる事でうやむやにする。献身生活とこの世で言う所のビジネス行動とは相容れない。相容れないものを一つにしようという矛盾に気付かないと何も進まない。やっていることは同じように見えても根本動機や基本コンセプトが違うと全く違うものとなる。普通、自由主義社会において生活を送ると自分の能力や技能によって受け取るものも環境も変わってくる。そこに向上思考や向上心が働くひとつの理由がある。いい意味でも悪い意味でも競争意識が働く。しかし我々は社会主義的な要素があまりにも強い。勿論私の独断ではある。富を得ることは悪だ、楽をすることは悪だと言う刷り込みが入っている。そして中心の指示は絶対、となると普通指示を受ける側はいつ移動や人事の話がでても身軽に移動できるようにという意識が働く。それが身の回りの事だけには留まらない。内的精神的にもしかりで、あまり今の所に力を注ぐと離れづらくなるという無意識なる意識が働く。いやらしく言うとどうせここにずっと居る訳じゃないから、ということになる。そういう状態が続いてきたため自分の力や能力を出せずにいるのに、自分では精一杯がんばっているつもりになっている。自分でも頑張るという意味がわからなくなっているのだ。労働自体が意味があると信じ頭を使うことや心を使うことが抜け落ちている。体制がそうさせたのかそういう人間が集まったのか、おそらく両方だろう。勿論自分もそのあたりの意識改革は他の兄弟と同じように課題だ。かといってこの社会の基準に迎合するわけにはいかないだろうからそこに想像力が必要になってくる。、せめてこのあたりの平均年収くらいは戴いて平均的文化生活をしてみないと客の嗜好や求める雰囲気はわからないし提供できないと思う。いまでこそないが平気で欠けた食器やすりきれた下駄を使っていた。兄弟からすれば節約だと当然のように思っているが客からすれば失礼なプアーサービスで離れていく。一事が万事全体的に我々の店は貧乏臭いということになる。雰囲気にしろサービスにしろ盛り付けにしろセンスはない。エンゲル係数が高い者がレストランをやると味と量と値打ち感が全てと思ってしまう。コスト削減、減らすことばかり考えているから売り上げも減る。指示待ちモードでずっとやってきたから自分から何かやるという思考経路は無いし、自己否定とは考えないことだと勘違いしているからなんの発想もわかない。人を雇うにも自分以上のレベルの人は早々に辞めるか逆に雇う側がうまく使われていたりする。だからまともな人は雇えない。マイナス要素ばかり並べたが現実をしっかり把握しないと次のステップには進めないだろう。

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