2007年2月14日水曜日

言葉に対する認識

食口は表面的にはもっともTPに近い立場ではある。しかしどれだけ内的に近いかとなると、TP の存在が自分の魂、意識、心情のありようにどう関わっているかだと思う。TPの存在を知らないか認めていない人は表面的に認知していないだけで、そういう人の中にも魂に直結している存在にたいして認め非常に従順な人もたくさんいる。いまだTPを認めていないだけで魂、意識、心情のありようは食口よりTPに近いと言えないか。み言を知っていると食口は言う。しかしみ言をなぞらえて行く時、その言葉言葉の意味するところがTPのそれと同じと言えるだろうか。ひとつの言葉の意味の捉え方も私とあなたとは違う。み言を訓読するとき自分で理解している言葉としてなぞらえていくとき、それはみ言を理解しようとはしていない。み言の言葉の背後に流れる神様の意思と心情を意識的にとらえようとするとき、み言を理解しようとしていると言える。神様を信じる、と言うとき神様の意味がわかっていないし信じるという言葉の本当の意味がわかっていない。自分の勝手に理解した言葉をつかって理解しようとしても無理なのだ。訓読するとき言葉で理解するのではなく意思を感じ心情を感じたときみ言に初めて歩みよろうとしている。

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