2007年2月9日金曜日

気付きに関する考察

人は置かれた状況が困難であったり、思い通りに行かない事で自分の運命を卑下したり、自分を惨めに思ったりと、いろんな感情に振り回される。ここで大切な事がある。いろんな感情を抱いている自分を観察できるもうひとりの自分を見出し主体に置くことだ。そのもう一人の自分は起こっている状況を十分な意識をもって気付く。そしてそれに対する自分の感情反応の動きを観察する。そしてその反応に対する認識の選択の自由は自分にあることに気付く。従業員も自分の思う通りには動いてくれない。何度も口をすっぱくして注意するがそんな一言で自分の思いが理解されるのであれば何の苦労もいらない。そこでその従業員に対して不平不満な思いやネガティブな思いが、自分の頭の中や感情体を占める。責任者としてその従業員に対する位置づけをわたしの感情判断にゆだねてしまうと、遠からずその従業員は離れざるを得ない。ここでもうひとりの自分が必要になってくる。もう一人の自分は、育った環境、置かれた環境のまったく違うこの従業員を理解することを要求しその従業員は私から学ぶ為に私の隣にいるのであり私は愛を持って教える為にこの立場を神が用意されたのだと私に諭す。心を平安に保てと要求されるのではなく、怒気を含もうが口早に説教しようがこの従業員を愛し正せと要求する。感情判断にゆだねて突き放すのも、取るべき姿勢を認めそう努力するもわたしの認識の選択の自由は自分にある。要するに外的状況は変えることができようができまいが、その内的状況を変える判断は自分にある。内的進路をどう取るかで新しい軸足を乗せるポイントが出来る。この内的判断を一瞬一瞬しているわけである。運命はそこを起点に変化しつつ展開していく。よって意識の方向に運命は動いていく。良心を顕在化させた新しい自分を中心に生きてこそ、堕落世界にどっぷり浸かった生活から引き上げられる。

0 件のコメント: