2007年2月9日金曜日

ご要請

ここにいる恩恵で数十回にわたるお食事の要請を戴いてきた。一番最初の時のことは忘れたくとも忘れられない。感謝の想いで忘れられないのではなく、その衝撃で忘れることができない。その日電話は10時を越して入ってきた。まさか当日に要請があるとは思いもよらず、まさに寝耳に水、しかも昼食の時間まで二時間もない。レストランからホテルまで40分は掛かるのにまだ何の準備も出来てない、どころか店に行く準備すらできてはいない。食材の心配よりも何よりも時間的に無理である。無理であれば丁重に断りをいれれば済むだけの話だったのかも知れないが、その時は全く経験もなく断る選択があることなど眼中になかった。全てにおいてNOは許されないと言う思いがあった。まさに取るものも取り合えず身だしなみを整える余裕もなく無我夢中で準備し、あせる思いでホテルに届けに行った。入り口では御付の方数人、その中にJもおられた。”遅い!”と声を荒げ準備したものを奪い去るように持ち去りスイートルームに届けられた。時計は12時40分をこえようとしていた。J婦人に隣部屋に案内され遅いので御父様はハンバーグを少し食べられた事をそこで聞かされた。御父母様は殆ど何の会話もなされず食器の音だけが私を責めるように隣の部屋に響いた。食事をされる時間はいつも短い。食卓に並べるのが早いか下げるのが早いかと言った感覚である。その時も三分も経たなかったと思う。終えられたから挨拶をするようにと促され、着の身着のままの姿で敬拝をささげることになった。御母様が何か一言二言御父様にささやかれる。御母様は笑みを浮かべておられたが御父様は口を閉ざされ窓の方をずっと見ておられた。私の方に向きを変えられることはとうとうなかった。出るように促されJ婦人からご苦労様とねぎらいの言葉を戴いてホテルを後にした。あの時の凍りついた情景が目について今も離れない。一番大切な時、その時に自分はなすべきことができなかった。自分を呪った。あの時怒声でも浴びることが出来たらどれ程楽だったろう。しかし一瞥もされずにやり過ごされた。帰った折、相対には”満足頂けなかったので断食をする”とは言ったが本当の所はショックで飯が喉を通らなかったのだ。三日間の断食、いや食欲不振である。あの時の思いは切腹すら辞さないほどの落ち込みだった。三日三晩生きた心地はしなかった。日にちが経つにつれひとつの思いが表れた。私とTPとの距離は何を以ってしても埋もれない、幾星霜の隔たりがあるという事実だった。いままでの信仰生活いや人生すら否定された思いだった。しかし、だからこそ慕うことが許され侍ることが許されることがどれだけ感謝であるかに思いは到る。それから来られる度にお呼びがかかり、その場でお声をかけて頂けることもあったが何度用意させていただいても最初に味わうことの出来たあの思いと心情を忘れたことは無かった。何度かお小遣いも戴いた。しかし私が戴いたのではなく全体を代表して戴いたのだという強い認識は、あの最初の経験が無かったらきっと無かっただろう。恐ろしくも栄光を自分のものとして受け取っていただろう。そして戴いたもの自体がありがたいのではなく、兄弟を代表した私の為、店の為、レストラン部の為、心を配って下さったそのことがありがたいのであって、分けていただいた気持ちを公的立場でありがたく頂き、その愛の何倍も返して差し上げたいと思う気持ちを大切にしたいと思った。

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