2007年2月25日日曜日

感謝の意識

信仰生活は感謝の生活だという。しかし本当に感謝の生活を送っているだろうか。感謝すべき立場だとは思っているが感謝はしていない。信仰的に捉えるべきだと思っているが思っているだけでそれは信仰ではない。それでは如何にして感謝の想いを抱いて生活することが出来るか。日々の生活の中で毎日が全く同じように流れているという感覚は先天的感覚で、本来は毎日が全く違う一日であり数え切れないほどの恵みと喜びと感動を用意されているという感覚が自然に自分の中に見出されるはずだ。事実、多くの恵みや喜びが用意されているのだ。ただそれを実感できる感覚をもっていない、と言うより自分の感覚がそのようなものだという決め込みをしているから、敢えて恵みや喜びの要素を払いのけていると言ってもいい。毎日はこういうもの、自分の人生はこういうものと言う自分の主観でしか生きていない。そこでもう一度はじめの質問を考えてみる。如何にして感謝の想いを抱いて生活することが出来るか。それは感謝すべき事柄がどこにあるのか。一日の生活の中で意識的に探しながら生活する。生活はこういうものという、主観で動く無意識生活を決別して一瞬一瞬の恵みを数える意識生活に入る。全ての行動に愛の気持ちの念を植えつけて行動し、受けるもの受ける感情の中にどのような恵みが閉じ込められて届くのか全霊を研ぎ澄まして感じ取る。そういう生き方を選ぶとき自然と本質的存在の神様に対して有難い想いが自分の中に育っていく。それは自分の存在と周りに対する感じ方を根底から変えていく。今まで事在る事に従業員に対して日記なり雑記長なり毎日の出来事や学んだこと感じたことを書き出すことを奨励してきたが、あまりやっているようには見えない。書き出すことによって自分の内面が映し出され内的にどういう状況にあるか確認できる。最初はなんだっていい。書き出すことによって意識的にならざるを得ない。二度とない一日一日が過ぎ去って行くのに一年を振り返り十年を振り返り内なる魂の愛の分量が増えるのを確認できず、今までの歩みは何だったんだろうと隙間風が吹くようでは祝福を戴いた立場としてあまりにも寂しい、あまりにも申し訳ない。

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