2007年2月12日月曜日
開放釈放という恵み
解放釈放という大きな恩恵を受けるときを人類は迎えている。食口、あるいは元食口の枠の中の釈放なのか。あるいは人類全体にたいする釈放なのか。み言に触れていない多くの知人やともに働く人々もいる。私は祝福家庭あなたは堕落世界の家庭、私は恩恵を受ける立場あなたは恩恵から漏れた立場そういう割り切り方でいいのだろうか。私たちに働く神はいるが彼らに働く神はいないということなのか。店はどうなるかわからないけれど、自分は参加するようにと言われた指示に従うまで、と言うその言い方は少し違うように思う。そこに意識しない傲慢さが潜む。そういう傲慢な思いを下げて恩赦の場に望めるのだろうか。店に対する(ましてやTP直属)心配や、他の従業員に対する感謝の気持ちをあわせ持たないないまま、自分は釈放されたと手放しで喜べるのだろうか。終わったら何食わぬ顔でまた店に出て、当然のように給与だけは頂く不思議な存在だ。霊的な恵みを受けたという意味は、その霊的恵みを内的に理解して、私の中に留めずに周辺に施して、霊的恵みの結果を形として周辺に現してこそ、霊的恵みを受けたと自分は納得できるはずだ。霊的恵みの結果を未だ出せないでいるなら、霊的恵みを地に漏らしてしまったと言われても仕方が無い。私達は多くの霊的恵みをその都度受けてきた。そしてその都度、結果を出せないでいる。であるなら、私はその負債をしっかり溜め込んでいる。霊的恵みは内的霊的に理解してこそ霊的恵みに対処できるのであって、祝いのケーキのひとかけらでも戴いたようなものだろうと簡単に思うのなら、それは大きな負債となって清算を迫られる。復帰された本来の私に取って恵みなのであって、未だ堕落の実としての私が八割方占める今の私に取っては恐ろしい戴きものだ。
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