2007年2月16日金曜日

軍隊とヤクザ

高校を卒業する頃には教会に転がり込んでいた。だから信仰歴と俗に言われるものは長い。信仰歴と信仰深さは別だ。逆に長いほど信仰的ではなくなる、場合が多い。当時の純粋さを培養しながら今を迎えていればとも思うが、ある意味回り道したように見えるその心情の道のりが必要であったのだと思う。いろんな経験をさせていただいた。結構長い間籍を置いていたのがFと呼ばれる責任分担。その前後にも同じようなことは毎日のようにやっていたが、その三年余りの期間は集中してやっていた。実は集中してやっていたのは周りの兄弟で決意だ路程だと言われれば自分は醒めてしまう。というか圧倒されて怖気づいてしまう。特にK兄弟のもとでやっていた時は軍隊そのもので時代錯誤も甚だしく、その空間は完全にタイムスリップだ。何度罵声を浴びせられビンタを喰わされ尻をバットで叩かれたことか、あげくに他のメンバーが朝食をとっている間外に出され、朝もやのかかる住宅地のど真ん中で声の限りに叫ばされる。「(自分の名前)の馬鹿野郎!」何度も何度もだ。馬鹿になることと自己否定とは違うと思うのだが。その期間が自分にとってどう言う意味があったのかよくわからない。しかしその兄弟はそういった態度や行動を愛のひとつのかたちと捉えていたのだろう。活動自体あるいは(万物)復帰した結果そのものが条件であり価値があるという信仰観念が全体的にあった。だからどんな手段を取ってでもという思いがあったのだろう。自分はついていけなかった、しかし背を向けることも出来なかった。落ちこぼれれば祝福にありつけない。祝福願望のためひたすらしがみ付いていた。この人は善だこの人は悪だと決め付けることは出来ない。行動それ自体も善か悪かなど判断できない。同じ行動でも動機が善なら善としてのエネルギーが作り出され、動機が悪であればマイナスエネルギーが作り出される。兄弟がとった行動にも善としてのエネルギーが内包されている。受ける側が好きだ嫌いだ、善だ悪だと決め付けてしまうとその善としてのエネルギー(=愛)を受け取ることは出来ない。過ぎてみれば全て愛であった、と言う基準には自分の歩みは程遠い。Fの次にインパクトのあった責任分担は水産だ。軍隊生活をやっとおさらばしたと思ったら少し間を於いて今度はヤクザな道を歩むことになる。責任者はその筋の経験あり、という先輩だったからFとは別の意味で怖い思いをした。K兄弟の場合軍隊ごっこという感があったが、この先輩はどっぷり浸かっていただけあって半端じゃなかった。彼を中心にいつも張り詰めた緊張感でギシギシしていた。身体全体から滲み出る威圧感で体がこわばる。何か注意事を口にする前、一瞬の間があるのだが正に蛇に睨まれた蛙状態でその目力には特別のものがる。その先輩にとって任侠道そのものが信仰なのだ。いつもおどおどしていたがある日曜日、みんなでソフトボールをしたときその中心者を見る目が変わった。それなりに皆楽しんでいた。私はその先輩と同じチームだ。ある回、守りについた自分のところに打ったボールが飛んできた。それまで接戦状態だったのでこれがどうなるか皆が注目するなか、高く上げたグローブをすり抜け顔面に直接当たってしまった。強烈な痛みがその直後襲ったがそれよりそのドジに対する先輩の責めが怖かった。他のみんなもそれを予期していたと思う。みんな顔色を伺っていた。一瞬シンとはなったが先輩はそれを見て大声で笑い始めた。それに連れてみんなも笑い始めた。顔で受けるな。とか言いながらしばらく笑っていた。その回が終わるとき笑いながらお前大丈夫か?と一言やさしい笑顔で聞いてくれた。その時この先輩は本当に純粋なんだと思った。思いがけないやさしさだったのでそう思えたのかもしれない。でもこの人と共に歩んだらFの心情圏に入っていけるかも知れないと思った。他の中心者でこんな気持ちになったことはない。愛の群れの中にいて愛を見たことは他にない。人事になってからもその先輩のいろんな噂話を耳にすると他の兄弟が聞けば引いてしまうような話を、相変わらず熱い信仰を生きているなあとうれしく思う。

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