2009年10月31日土曜日

眠りについて

人間は眠りを愛する。眠りに入ることで霊界に入っていく。起きている時は自分と言う存在を意識しているけれど、眠りに入ると意識されない自分が霊界に分散していく。胎児がへその緒を通じて外界に接しているように、人間は眠りに入ることで霊界に接している。へその緒を通して外界から届くものが極めて限られ、外界そのものに胎児が直接触れるなら胎児は生き延びることができないように、眠りを通して霊界から受け取るものも極めて限られており、もし霊界そのものに人間の魂が直接投げ込まれるなら人間は霊人体として霊界で生きる魂の力は弱くなるだろう。眠りに入るとき私は無意識のベールをかけられる。意識を持って霊界に参入するなら、その圧倒的な高次の雰囲気に自分の魂は耐えられないに違いない。無意識のベールをかける霊に護られて、限定的な霊界に開示されることで、明日を生きる魂の糧のみを高次の霊界から受け取っている。魂の糧は肉体としての活力以上に人間としての魂活動の活力として受け取る。覚醒時にどういう魂活動をしてきたかにより、受け取る魂の糧の種類も質も違ってくる。誰もが同じ眠りにつき同じように目覚めていると思われるけれど、受け取っているものはそれぞれに皆違う。覚醒時の魂活動を私は何に帰依して為しているかで霊界に持ち込むものも違い、それに相対して受け取る霊的活力要素も違ってくる。今日一日歩んできて今日の出来事を振り返りながら、その外的内的経験をどう捉えどう反省し、どういう教訓を学びどう生かすのか。食事一つとってもその事柄にどれだけ内的意義付けができ、魂の知情意の領域まで引き上げながら自分の内側に刻印できるなら、霊界を主体に置いた地上生活を送っていると言うことができる。

新生

御父母様が希望の実体として立っておられる。私の外にのみ立っておられるのでなく、私の中にも立っておられる。私の外にだけ立っておられるのであれば私は半永久的に御父母様と一つになることは出来ないだろう。御父母様が私の中に立っておられる意味は、御父母様が霊的勝利圏を立てられてマクロコスモス、ミクロコスモス如何なる場所であっても尋ねられることができ、勝利を相続させようとしておられるからだ。私が絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準と一つになって完全マイナスの相対圏に立つことができれば、主体であられる御父母様を私の中に見失うことは無い。私の中に聳え立つ御父母様を見失うことが無ければ、遅かれ早かれ御父母様とひとつになれる。偽りの自分が最後の砦を死守しようとし、自爆的な魂行動に出ようとしても、もはや私の霊の目は御父母様の目になってしまっている。何とも愚かな見え透いた悪魔的な感情を噴出させても、それに騙され踊らされることは無い。私の中におられる御父母様が光を照らされる。今までは暗闇の中から差し出されたものを意味も解らず受け取り飲み込まざるを得なかった。しかし今はその意味を見て取ることができる叡智を光として照らし出される。それが神から来たものかサタンから来たものか、その霊的背後を見通すことができる。私の中におられる御父母様が私の中で益々大きくなられ、私という存在を超えて私を包み込まれる。私を包み込まれることで、御父母様という存在が真の愛そのものであることを悟る。私は微笑まれる御父母様の心情に包まれながら真の愛で霊化していく。私は真の愛で生まれ変わった新しい自分を発見する。

2009年10月30日金曜日

今日の想い 114

他人の放った言葉で自分を責め、み言にも裁かれ、信仰を実らせることができず取り返せない流れてしまった時を羨み、だから自分はこうなんだと現状の問題一つ一つを取り上げて自分自身を恨む。もはや神様に自分はどうしてこんな状態なのでしょうかと談判する意志も起こさず、ひたすら背を丸め日の当たらない隅に身を寄せながら、捨て去られた自分という独房に自分自身を押し込めて、何重にも鍵をかける。何とかその場から引き出そうと、良かれと思い声をかけても、どうしてこんな自分に更なる罵声を浴びせるのかと、恨めしい視線を投げかけながら更に自分の中に閉じ篭る。誰もあなたを裁くことはできないし裁いてもいない。自分に脱落者の烙印を押し続ける存在を神様と思っているけれど、それは偽りのあなたがそうしているだけで、偽りのあなたを本当の自分だと後生大切に囲って拝んでいるだけなのだ。悪魔の声らしく届かない悪魔の声を自分の叫びだと思わされ、自分を否み卑下することを謙虚と捉えているあなたは、明らかに自分を貶めている。自分を貶めることで神様を貶めている。その感情の位置は今までに何度も何度も自分を追い遣った自分の逃げ場所。そこに逃げ込むことで自分を否み卑下することに悪酔いしている。重油のような否定的感情に浸かりこみ、色とも言えぬ暗い色に魂を染めながら、感情は重くなって波打つこともしない。軽やかな、喜怒哀楽が溢れて踊る、遠い昔のあなたの魂を、瀬戸内の海に光たちが戯れるようなあなたの魂を、取り戻せるまでどれくらい掛かるのだろうか。私を責めてそれで取り戻せるのならどのようにでもしてくれればいい。しかしそれでもあなたは私を責めずに自分を責め続ける。

2009年10月28日水曜日

グランドキャニオン その二

うちの連中は朝がめっぽう弱い。この機会を絶対逃してはならないと思い、ついたその日は明朝に備え兎に角早く休むことにした。翌朝、本当に休めただろうかと思いながら、暗闇に目覚ましの音が響くと同時に飛び起きて皆をたたき起こし、宿を出たのが四時半くらいだったろうか。暗いうちにきのう来た道を引返し、空が白み始めるまでヒーターを入れた車内でしばし待つ。幾らか上空の暗闇が薄くなり始めた頃、様子見のために出かけても、岩地の向こうは暗黒が広がるばかりで暗闇の海の底に沈んだまま姿を現さない。車から出たり入ったりを何度か繰り返しながら、最初の光が届けられて天と地の境界線がはっきり捉えられると、徐々に徐々にそれは姿を現し始めた。岩肌の凹凸に合わせて朱色の淡い陰影を浮かび上がらせる。ゆっくりと時間をかけて紋様を広げていくと、幾筋もの地層に沿って微妙な色合いの違いが浮かび上がる。峡谷の底は辛うじて陰影を醸し出す程度で、色の要素はまだ届けられない。暗い遥か地の底から、オレンジ色に輝いて反射する地表近くまでの、岩肌のあらゆる様相や表情をこの瞬間に目に捉えているけれど、最深の位置から地表までの創造歴史は想像もつかない気の遠くなる時を刻んでおり、更に幾億もの地層を重ねて隆起した地層を今度は寝食する作業工程に数千万年の時が刻まれている。その事実を眼前に広がる景観を受けて実感できる人が果たしてこの世にいるのだろうか。創造歴史、地球生成歴史と一言で言うけれど、この小さい魂でそれを把握することは到底出来ないだろう。ほんの数十年間の人生ですら手に負えない魂でありながら、何億万年という時を刻みながら創造の営みに奉仕してきた魂を前に、自分は佇むことすら出来ないに違いない。神様神様と簡単に口にするけれど、それが分をわきまえないあまりにも畏れ多い言動であることを悟るだけが精一杯なのだ。この景観を前にして、芸術的な感性を働かせながらどれ程美しいかを受け取るのではなく、創造歴史の深みと重みを痛いほどに受け取る者となり、小さな悩みに翻弄される己が魂を恥かしく思う宗教的感情を覚えるべきなのだ。光が溢れて峡谷の全容が明らかになり、自分の周囲に目を遣ると、数人の人達が祈る風にも見えて寡黙に立ち尽くしている。私の背後で、寒さに紅潮させた頬を朝日に輝かせながら景観に見入っている妻や子供を促して、グランドキャニオンを背にすることにした。

グランドキャニオン その一

何処までも一直線の道を走り続け、サインにそって幾らかのぼり気味に車を走らせる。パーク入り口のゲートを超えて更に走ると駐車エリアにやっと着く。降りてそこら辺を見回してもそれらしき景色は見当たらない。しかし人が流れている方向に足を進めていくと、峡谷を挟んで向こう壁なのか、地平線がせり上がるように急に現れてくる。山に向かうときはだんだんと迫ってくる感覚を覚えるけれど、グランドキャニオンは一瞬で眼前に光景を現し、急に違う世界に扉を開かれた驚きを覚える。最初にこの光景を発見した人は相当驚いたはずだ。できればここに関する何の情報も得ずに、何の期待感も持たずに、最初に発見した人と同じ状況でこの光景を目にしたかった。もし自分の親でも連れてくるなら何も知らせずに連れて行き、腰が抜けるほどの驚きを味わわせたいと思う。それが大峡谷の見方に違いない。驚きによる高揚感が谷の底を見たい衝動を引き起こし、せり出した岩場へ足を早める。人間としての本性なのか、峡谷の美を味わおうとするよりも何よりも、兎に角自分の位置を先ず確認したいらしい。皆が皆、手すりから身を乗り出して遥か底に霞んで見える川を確認するとやっと落ち着いたのか、おもむろに大峡谷全体を見回しながら鑑賞の姿勢に入っていく。確かに驚きはするけれども、これ程の大掛かりな景観を前にして自分はどういう感情をもとうとしているのか戸惑っている。雄大さを覚えて感激すべきだろうけれど自分の知る雄大さと言う概念を超えるものを目にしているようで明らかに戸惑っている。正直、この景観を目にすることで何を受け取るのか、何を教えようとしているのか解らず、取りあえずはカメラをあちこちに構えながら、そこら辺の観光客と同じ行動を取る以外なかった。その日は予約を入れておいた宿を見つけるため、暮れかかる前にはその場を後にしたが、あくる朝は日の出の峡谷を見ることにしていた。

2009年10月26日月曜日

今日の想い 113

久々に晴れ渡った空の下で、人それぞれの霊界も大きく開放されながら、自由な心情感情を遊ばせて今日の一日を生きる。自分と言う魂を一個の肉体に深く埋め込まれたが故に、他に対する自分、他と比較する自分と言う、他と自分、外と内の隔たりを深く遠く構えているものだから、その溝を何年経っても埋めることができずに、閉ざされた自分を誰もが生きている。自分という存在に固執すればするほど孤独になり、全ての不幸の根源が実はそこにあることも気付かずに堕落人間の悲しい性を生きている。愛という言葉は知っているけれど、それぞれの器に応じて理解されるものだから、途方も無い愛を注がれて存在しているにも係わらず、自分に与えられる愛は極めて限られていると思っている。み言をそれなりに理解して、御父母様を自分の御父母様であると言えるとしても、み旨を要求としての指示事項として捉え、それが御父母様からの真の愛の贈り物であるとは捉えない。み旨を前にして構えれば構えるほどに、自分と言う独房の中に入り込むのであって、み旨本来の接し方とは違ってくるだろう。伝えたくて伝えたくて仕方が無い、与えたくて与えたくて仕方が無い、そう思える魂の開放こそ本当の自分は求めているのだろう。与えること、為に生きることへの理屈など本来必要は無い。他と自分、外と内の皮膚や壁や溝を撤廃し、他の痛み苦しみを自分の痛み苦しみとして感じ、他の喜び楽しみも自分の喜び楽しみとして感じることができる、それこそが解放だろう。他の中に自分は入ることで他を理解でき、広大な宇宙の中に自分は入りながら宇宙に流れる神様の心情を受け取り神様の叡智を受け取る。み旨だと言って構えて身を強張らせて歩むけれども、本来救われるべきは私という魂なのであって、み旨と言う救いの摂理の99%は神様とメシヤである御父様が立てられるのであり、私の立場は救われたい、救って欲しいと言う魂の叫びを御父様に届けて差し出すことしかできない。しかし堕落人間としてそれを為そうとすれば、身を挺してでも帰依する覚悟が必要なのだ。見上げる覚悟の位置を境に、手前は肉の心に自分は操られ、覚悟の位置を超えれば良心によって自分を取り戻すことが出来る。絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準とひとつになるその覚悟こそ、天国と地獄の境界面なのだ。

2009年10月25日日曜日

今日の想い 112

夏場では、一雨勢いよく降ってしまうと後は嘘だったように晴れ渡る。今日朝方は持ちこたえそうだったけれど、そう思うと直ぐにも降り始めた。降り始めた雨は降っても降っても止む気配は無く、空は益々暗くなっていく。夏の雨と秋雨とは別の霊的本性が働いている。この雨に曝されることで大地に息づく全ての生命は活動を弱め、息を潜める。木々や草花が息を大きく吹き返し活動を始める春の様相とは対照的に、息を一雨ごとに弱くしながら仮死状態まで落して行き、やがて来る冬に備えようとする。この雨に打たれることで植物は外界に向かっていたベクトルを内面に向ける。外界から受け取った光を、内面に差し出し、宇宙に通じた内面に差し出すことで繁殖の力を宇宙から受け取る。一日の朝昼夕夜が一年の春夏秋冬にリンクしているように、植物が冬の期間宇宙から繁殖の力、創造の力を受け取るのは、人間が夜寝付くことで、昼に受け取った経験を内面に届けながら明日の生きぬく魂の力を受け取っているのとリンクしている。受け取る魂の力を発展の力、創造の力に費やすことなく、ただ一日を生き延びることのみに使われるなら、人間は植物に対して負債を負うことになる。口にする食物が私を讒訴する。自然の営みには霊的本性たちの叡智が溢れている。堕落人間には想像もできない叡智の領域が自然の営みに係わっている。季節の流れから受け取る感情や深い観察を通しながら、霊的本性の働きを垣間見るだけでも、堕落人間がどれほど恐ろしいくらい無知に陥ったかを知ることができるし、この肉体に住むこと自体が羞恥を超える恐れ多いことだという謙虚の意味を知ることができる。今年の春でもなく、去年の春でもなく、歴史上にはない始めての新しい春を創造するための宇宙的創造の取り組みが、霊的本性を通して既に行われている。

2009年10月24日土曜日

深い秋に想う

冷たい雨が三日を通して降り続くと、秋は一気に深まりを増して数日前の残暑が嘘のようだ。木々の葉はまだたいして色づいてもいないのに、早々と散り落ちて土に帰ろうとしている。人々はあれほど照りつける熱を避けようとしていたのに、今は柔らかくなった陽光を惜しんでいる。むせるほどに湿気を帯びていた重い大気も高い空を見通せるほどに透明度を増し、軽やかに風を舞い上げている。こちらに来て久しぶりに虫の声を耳にした。今までも耳を澄ませばそれなりに聞こえていたのかも知れないが、何がそうさせたか気付かなかったようだ。視覚に秋を受け取り肌に秋を感じ、耳にも秋の振動を受け取ると、秋の雰囲気そのままに内面も秋色に染められ、切なさの感情が内面からこぼれ出る。毎年この頃になると帰国し、田舎の両親の顔を見て来たけれど、どうも今年は難しいようだ。この時期にいつもそうしていたのは、秋に覚える切なさのせいだったかも知れない。子供の頃にはそれぞれの季節から受け取る感情が、大きな存在感として占めていた。それぞれの季節への異なる期待感に胸を膨らませていた。それがいつの間にか薄れ、消されていった。今の子供が、私が幼少の頃受け取った感情そのままを受け取っているとは思えない。今の時代がそう言う時代なのか、社会がそれを消し去ったのか、味気ない感情生活を強いられて、神秘的なもの、目に見えない事柄の存在感を知らないままに大人になるなら、人生の喜びの半分は取り去られている。御父母様に向かう想いの根底にも、子供の頃に受け取った多感な感情が慕う力を紡ぎだす。虫の声に耳を澄ましていると心が落ち着いてきた。内面の波をその波長で鎮めてくれる。虫の声には心を癒す揺らぎの響きが含まれている。虫の声に耳が止まったのにはそれなりの理由がある。天正宮での訓読会で、御母様の歌声が披露されていた。配信された動画を前にしながら耳にするその歌声には涙を誘う哀切が含まれ、スクリーンから溢れ出す。その響きを虫の音の中に聞き取れたから耳に止まったのだ。虫の声には神様が尋ねてこられた歴史の哀切が響いている。

今日の想い 111

政府に対する官僚があるように、社長に対する本部がある。官僚の下に大手の企業や中小の企業があるように、本部の下に卸し業やレストランがある。国の存在が経済の動向を主軸にして動いている現代に於いては、図らずも国の在り様と、み旨に於ける経済活動の分野を担当する我々の在り様はシンクロする。民主党が政権を取り新たな政治への取り組みを始めたばかりであるけれども、マニフェストに従って政策を遂行するにも今までの形がありタガがあり、そう簡単には日本丸のヘサキは変更できない。講釈を受ければ理屈はわかるとしても理屈では人も組織も動かない。動かすだけの外的要因と内的要因をどれだけ準備して、やらざるを得ない状況に詰めていくかだろう。総理が友愛という言葉を使っているが、それが今回の政権の根底にあるものとして総理は認識をしている。その言葉に込められた思想をどれだけ閣僚に官僚に、そして国民一人一人に植付けることができるかが改革の力となるが、そんな思想以上に利権が絡み損得の絡む事柄への執着が大きいだろうから、結局は何も変わらないか、或いは全てをぶち壊して終るかのどちらかだろう。我々に於いてもみ言から流れてくるものを主体として備えているか、或いは厳しい経営状況に於いて取りあえず生活を含めた当面の維持に躍起になっているか、内的霊的状況分析をしっかりと踏まえながら舵を取っていかないと日本丸と同じ運命を辿ることになるだろう。組織の位階に於ける個々の問題点を取り上げることは、皆にすれば批判にしかならないので敢えて伏せるにしても、明日が全く見えない日本の中小企業と同じ状況に我がレストラン部があることは事実だろう。問題点を報告しても改善案が上から掲示されることはない。上は絶対であり下は上からの要求は呑まざるを得ないものだという認識と、現場の問題は現場で解決が当たり前というこの二つの悪しき概念が、現状を無視して跋扈し続けるなら日本丸と同じ運命を辿らざるを得ない。新しい時代、変化への対応力が要求される時代には新しい概念が新しい皮袋として必要とされる。だからと言ってみ言からずれて行くとは思えない。み言的に言えば過去の概念は今の時代、十分ずれている。

2009年10月22日木曜日

95号線を走りながら

朝まだ暗いうちに家を出て北上する。環状線から北へ伸びる95号線に差し掛かった頃、東の空がやっと白み始めた。なだらかな起伏が延々と続くこの広い道路に、さして大きく視界をさえぎるものはない。運転しながらも空の変化は逐次観察できる。町の中に埋もれたままで朝を迎えそのまま一日を送れば、この宇宙の只中に存在しているという実感を覚えることは無いだろう。宇宙と自分とを当たり前のように別物に捉えている。宗教的感情を育てれば感覚的知覚を超えたところで宇宙の中に溶け込む自分を認識できるだろうし、内面を掘り下げていけば自分は宇宙全体にまで拡大していく。視覚は前方を捉えハンドルを握りながらも、視覚の周囲から大きく入り込む天空に意識を持って行き内面に映し出す。湧いては去っていく数千の思いを秋の空の青に変えて行き、秋の空の青のみで内面を満たす。瞑想しながら魂の波を鎮める時は忍耐のいる作業が必要だけれど、秋の空の青に集中できれば青は沈静の働きをしてくれる。肉体に流れる感覚的熱情に対し、先の見えない暗黒の闇が迫る不安と恐怖の感情に対し、指し当たっての問題の解決策が見出せない歯がゆさに対し、鎮静剤としての役割を果たしてくれる。神様に委ねるしかないという結論の言葉は既にあるけれど、委ねるモードになる為の魂の糸口を探している。空の青は神秘の表象。青に映るその向こう側にありとあらゆる霊的本性があり、神様と神様の使いからもたらされる溢れる叡智が大海の如く波打っている。真の父母の勝利圏を相続した自分であれば、それを受け取り使うことは許されているだろう。絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準とひとつになった自分であることが、青に映る存在の本質へ入るベールを潜れるのだろう。御父様が語られる数理の秘密に隠された本質的内容を、おぼろげにさえも捉えることが出来ていない自分は、願われる基準から程遠い者であることを認識しながら、それを落胆としてではなく謙虚さとして認識すれば一歩を踏み出すことができる。

2009年10月19日月曜日

コディアックのサケに想う

数年前の八定式にアラスカに手伝いに行った事がある。魚との付き合いは長いので今まで食材としてのサケは飽きるほど見てはきたが、ノースガーデンに於いて食当の為に殆ど外に出ることはなかったし、川を遡るサケの群れがどんなものか想像もつかなかった。数日が経って御父母様もコディアックを後にされ残った修練生も少なくなった為、食当も時間の余裕が出来てサケでも釣りに行ったらと言うことになった。遠目に見れば普通の川だが近くに寄って幾らか目を凝らせば、川の流れというよりサケの流れと言えるほど、川上から川下までサケで埋め尽くされている。圧巻だった。母線回帰の習性を持つサケは長旅を経て、やっとの思いで生まれ故郷の川に辿り着く。それからは犠牲を絵に描いたようなプロセスを通過していくのだ。遡上の過程でパートナーを見つけるとツガイのまま更に浅瀬を遡っていく。障害物や川底の石で鱗をはがし身を削りながら、餌も口にせずひたすら遡っていく。目的地に着くと最後の力を振り絞って産卵し、雄は放精する。産卵を終えたサケはその場で十日を待たず死んで行く。熊や他の生物の餌になることで回りまわって孵化する稚魚の餌になる。川を遡上するサケの群れを目にしながら、御父母様を迎えてみ言を待つ兄弟姉妹が、イーストガーデンやベルベディアの一室に足の踏み場も無いほどに詰め寄った光景を見るようだった。人間性が剥奪されたようなその場にうずくまる自分は、決して外的には快くは思えないが、外的な状況に反比例するように内的霊的な宝がその場にあることを知っている。御父母様がサケの一生をビデオで御覧になられながら、統一の群れの歩みと重複して見ておられたはずだ。傍目には余りにも切ないサケの最終章も、本質に目を遣ることで為に生きることの尊さを眩しいほどに受け取る我々でなければならないだろう。魚ですら父母と先祖は子孫のために犠牲となるのが当然の原則としてありながら、人間が父母としてそれが出来ずにいるとするなら、動物以下の存在だと言われても仕方がない。この身が朽ち果てる最後の最後まで、為に生きることのできる対象を探し回り、死の寸前にあっても為に生きる自分でありたいとの想いを熱くし、為に生きることに飢えて渇望してこそ、サケの種族を超える統一の群れとなることができる。

民族意識、民族感情

電話をよこしてよく話すひとりの兄弟がいる。同じ頃にアメリカ人事を言い渡され、お互いこの地に歩んで四半世紀に及ぶ。よくも話す事柄に事欠かないものだと、感心もし呆れもする。故国を離れて歩めば、誰もが故国に繋がれている宿命の糸を覚えずにはおれないだろう。年を重ねる事でそうなるとも言えるけれど、今更にして故国の事を我が事の様に感じる自分がいる。自分のことを知りたいと思うように故国日本のことへの関心が強まり、過去の歴史を検証もし今の在り様を憂えてもみる。彼から電話が入る度に、あいも変わらず日本人を生きているなあと想う。真珠湾攻撃の開戦前夜に何かの陰謀がない限り、開戦通告が遅れることでパールハーバーの奇襲として今の今まで卑怯者呼ばわりに甘んじなければならない歴史の汚点は払拭されたはずだと言う。そこに端を発して自国を愛さないどころか認めようともしない自虐国家日本が現状としてある。恐らくその通りかも知れない。その通りであるけれど、それを声高に自分の内面に響かせ、事或る毎に口にするのも決して利口だとは思えない。プロセスがどうであれ、第二次世界大戦に於いてサタン側日本として参戦した以上、なるべくしてなった結果と言える。ましてや非難しようとするアメリカに、勿論人事という直接的意志ではないにしても、この地に居を構えこの地で商売をしているのは事実だ。全てではないにしてもアメリカによって生かされている面も多大にある。故国を愛するのは善しとしても、それなりに食わせてもらっているこの地を、復帰しようとしているこの地を非難する意識が働くのなら、み旨の願いとは方向性は違ってくる。彼の話を聞きながら彼の店に軍歌でも流れ、日章旗でも掲げられているような愛国の意識があるなら、店に足を運んで喜んで食事をしているお客に、愛の心情で接っしていると断言できるだろうか。御父様が既に話されているように、我々は韓国人でも日本人でもアメリカ人でもない。韓国にいる食口であり日本にいる食口であり、アメリカにいる食口なのだ。今と言う位置から過去を見る時は日本民族としての歩みが当然あり、日本民族として受け取ってきた負の財産を清算すべきも事実であるが、今と言う位置から未来に顔を向けることが生きることの意味合いだと想うのであれば(私はそう確信しているが)、それぞれの国や民族に対する事柄に関しては世界人としての立場から、自分の意識や認識や関心事が正しく世界平和へと続くものなのかどうかを見なければならない。

2009年10月18日日曜日

今日の想い 110

一昨日からの雨が今朝やっと降り止んだ。車を走らせても見通しは悪いし道路という道路が車で溢れていた。あちこちで青色点滅灯の鋭い光を雨に煙らせたポリスカーが事故の為か車線を限定し、そのために車は遅々として進まない。週末の売上に望みを繋ぐしかないのにこの雨で客足は減ってしまった。この雨が恨めしい。別に店の売上を考慮に入れながら自然の摂理が為される訳ではないので、文句を言っても仕方のないことだが、それでも恨めしい。一雨一雨、重く暗い秋が深まっていくのだろうか。今年はシェナンドア辺りまで足を伸ばし、紅葉狩りでもと思っていたが、別に行けない特別の理由がある訳でもなく、憂えることが多くて出かける機を逃してしまったようだ。木々の葉は紅葉を待たずに雨に落され、濡れ落ち葉となって地に重なりへばり付いている。今朝もどんよりとした雲に覆われ、天からの気が塞がれているようで大気の底でうごめく自分には届かない。御父母様も祝福を前にアメリカの地を出られ、御父母様の居られないアメリカという抜け殻は、大国なだけにひと際寂しいものを覚える。顔を上げるのさえだるさを感じながら、それでも天を仰ぐべきだと自分に言い聞かせ、垂れ込めた雲の重みに身を曝す。ホテルの最上階で、昇る朝日のオレンジ色を部屋一杯に注がれる中を、訓読会の御父様の声音が響いていた。部屋の隅で小さくなって耳を傾けていたその時の感情を思い起こしながら、御父様のアメリカへの想いを残された我々が伝えるべきだろうと諭している何かを感じる。垂れ込めた雲に閉ざされてしまったこのアメリカの、天との唯一の接点は我々であり、我々にその救いは託されているということなのだ。厚い雲を突き抜けて飛翔できる力は備えられているはずで、ただ、周りの暗鬱な様相を醸し出す暗い霊に主管されて見えなくされているだけだろう。絶対信仰がただの御題目に留まらず、御父様の息子娘であると断言されたのであれば、御父様が見ておられるものを我々が見ることができて当然ではないだろうか。御父様から放射される真の愛の光を我々が輝かすことができて当然ではないだろうか。張り詰められた雲海の上に太陽が輝いているように、閉ざされた地上に第三第四の太陽として我々が輝くなら、地上地獄は地上天国に様変わりし、天と地を隔てるものは意味をなさなくなる。

2009年10月17日土曜日

理想世界

御父様が把握する理想世界の概念とはなんだろう。理想世界はこの地上の存在世界ではない。今、存在している世界の延長線上に見えるものではない。存在世界の様相が今と変わらず、人類全ての心の持ち様だけが変わる、そんな微笑みと優しさの溢れる理想世界をイメージしてみても、それは堕落的ユートピアではあっても神様が願い万宇宙が願う理想世界であるはずがない。この存在世界は、堕天使ルーシェルが神様の娘を辱めて生ませたこの世の神、サタンの子女、堕落人間と共に築き上げた存在世界であり、地上地獄なのだ。堕落人間がこの存在世界を堕落的感覚を満足させる為の世界として築き上げてきたものだ。この世の至福は存在世界の物に起因し肉に起因している。物は幻であり肉は幻想だ。幻を掴み幻想を追い求め、蜃気楼を築き上げている。この肉が消え去る時、儚くも全て消え去るものに人生をかけている。理想世界は天上にある理念の世界でもない。ルーシェルと共に行動したあらゆる天使たちが天使的理念世界を築き上げた。地上地獄の存在世界があれば、原因的天上地獄の存在世界がある。天上地獄の理念体系、価値体系の道理で、地上地獄の道理が決められている。地上地獄の道理で生きて死ねば、そのまま天上地獄の道理に当てはめられる。自分が堕落の道理で生きているのか、天の道理で生きているのかを問われている。しかしながら堕落とは関係のない真の御父母様が勝利された事で始めて、御父母様が創造権限を持たれ新しい理念世界は築かれていく。私達はみ言を学びながら新しい理念世界の道理を学んでいる。その理念体系、価値体系に生きることで、直接天国に生きる道理を体術している。理想世界を御父様はこう説明される。-その世界は心情の因縁を中心として動くことのできる情的な流れの前に、全体を巡って息子であり娘であると呼ぶことのできる世界ー 理想世界は心情世界なのだ。心情が中心の世界なのだ。心情が中心となって理念世界が築かれ、それが骨組みとなり天上天国、地上天国が築かれる。理想世界を見ようとするなら、御父母様の心情を体恤するものとなり、その為には慕い侍って骨髄の中に入り込まなければならない。理想世界の中に心情が込められるのではなくて、心情の中に理想があり理想世界もある。

2009年10月16日金曜日

今日の想い 109

家庭として一つになり得たとは思わない。しかし一つになる途上にあると思っていた。夫婦の間に真の夫婦の愛が関与され、子に対し真の親の愛で接し、必ず子供も真の愛を受け取ってきたことを自覚するだろうと思っていた。時として影を潜めて沈殿していた堕落の本性が活動する。未だサタンの影響下から脱しない現実を突きつけられる。この世的な絵に描いたような家庭のイメージを捨てきれず、表面的な笑顔と表面的な労わりを夫婦の在り様、家庭の在り様と思うなら、そこにどう真の父母から受け取ったものが関与できるだろう。どうやって神様への想いがその関係性に生じ満たされていくのだろう。ぶつかる事を善しとせず、言葉と行動のひとつひとつに鋭いものが含まれるのを毛嫌いし、細心の注意を関係性の中に注入していくなら、それを裁きとは言えないだろうか。それが御父母様が見本として我々に示された真の夫婦の在り様だろうか。ぶつかっていいと思う。いやぶつかるべきだと思う。魂の合体、魂の一体化こそ夫婦の真の在り様であるなら、お互いの魂の中に土足で入り込んでも善しとされる開け放たれた心の門が、第一の門、第二の門、魂の奥の奥の本質まで到る全ての門が開門されるべきだろう。お互いの堕落の本性を見て見ぬ振りを装うのでなく、魂のがん細胞である堕落の本性にメスを入れてくれと正面切って対峙し、傷口をえぐって相手が入り込むのを痛みを覚えながらも善しとする、その気概が必要だろう。堕落の本性で神様に起因する真の本性が隅に追い遣られ、息たえだえのその状態にあるのを救助しなければならない。救われることの意味がそれであり、この肉への思いを捨て切ってこそ救助し生かすことが出来る道がある。生かされた真の本性同士の一体化こそ夫婦の本質であると認識し、本性と本性が交わる事で真の夫婦という真の愛の花が咲くだろう。真の愛の実として子供は実っていくだろう。開放釈放時代に突入すれば自分も自分の家庭もそのまま解放釈放圏に入って行くのだろうと、あまりにも安易な態度でいたことが恥かしくもあり愚かにも思える。遥か彼方に聳える御父母様を、間近に迎える日をひたすら慕いながら、泥沼の一歩を踏み出していく。

悲しい時こそ、辛い時こそ、より高次へ羽ばたく翼が用意される時だろう。悲しみの感情の中に、辛い思いの中に、醜い本性や不信への誘惑が入り乱れ、その中へと引きずり込まれそうになる。お前はやはり偽りの愛により生を受けた悪魔の子だと、内側から囁き続ける存在が自分の中に居座っている。目の前にある物を地に叩きつければ清々するぞと焚きつける。血気の許すままに毒気を口に任せて吐き出せと指図する。誰でもいい。誰でもいいから思い切りこの自分を叩きのめして欲しい。そして悪魔に鷲掴みにされたこの魂を奮い立たせて欲しい。そして耐えるのだ。悪魔にそそのかされる衝動をひたすら抑えて耐えるのだ。耐えて耐えて耐え抜いて、頭を落とし膝を抱え、打ち震えながらも胸を掻き毟って忍耐する。そして天を仰ぐのだ。視線を天の彼方に向けるのだ。視線の先にこそ魂の自由になれる領域がある。悲しみや惨めさを翼に変えることで羽ばたける。耐え抜いたことで膂力が備わる。そうしてひとたび地を蹴ると、視線の先の領域から光が届けられる。自分の悲しみが天の悲しみに変えられ、惨めさは敬虔を供えた謙虚に変わる。それらが翼を更に大きく、更に力強くする。もはや地獄から伸びるあらゆる醜い誘惑の手は光の中を飛翔する自分には届かない。魂の自由の領域こそ故郷と呼べる領域に違いない。御父母様をいつまでも慕い、御父母様にどこまでも侍りぬいて、魂の自由なる故郷に向けて羽ばたく。精誠を尽くしながら、御父母様も通過された苦難の路程の一つでも通過することで、涙に濡れた心情の一つ一つを伝授される。受ける父母の心情のひとつひとつが通過点となりながら、魂の自由なる領域に大きく羽ばたいていく。

2009年10月12日月曜日

協助について考える

絶対善霊が協助し、祝福先祖が協助するはずだと構えていても、貴方が期待するような事柄は起こらない。多くの兄弟は協助するという意味がわかってはいない。何か霊界からしてくれるものと言う期待を持ち続けても、それが協助出来る基台とはならない。協助と、手助けの施しとは意味合いが違う。受け取る期待感を持って霊界に接しようとすれば施しを求めていることになり、どれ程待ってもそれに応えるものを霊界は準備することはない。自分や自分の家庭の背後には明らかに絶対善霊、祝福先祖が控えている。それも大群である。霊的な事柄や事情がわからないと、霊的存在を地上存在と同列に並べ理解しようとするけれど、地上的理解で接しようとしても食い違いが生じる。御父母様は我々の先祖を解放され、祝福先祖として何億という霊界祝福をされている。絶対善霊、祝福先祖の霊界圏が厳然とあり、アダムとエバに対する天使世界としての位置に、その霊界圏が我々の周囲に現実としてある。その霊界をどのように動員していくかと言うと、先ず天使世界である霊界に対して私が主体であるという認識を持たなければならない。霊的に主体の位置を取ると言う事は、例えば或る実績を求められている場合、自分はそんな実力はないし果たして出来るものだろうかと言う位置に立てば相対圏である霊界も難しいだろうというスタンスを取らざるを得ない。逆に御父様の勝利圏を信じて必ず出来るしやり遂げるという位置に立てば霊界もそのように働く。あくまで自分が主体の立場で霊界を鼓舞し奮い立たせる気概をもって接する事で霊界は主体である私とひとつになり、ひとつになると逆に霊界から教えられ働きかけられるようにもなり、霊界の大群は私の大軍となる。天使世界としての霊界圏である絶対善霊、祝福先祖に対して常に感謝の念を供えるべきであり、主体としての自分の位置は絶対信仰、絶対愛、絶対服従とひとつになった基準を求められるから、常にそうあろうとする意識を欠かしてはならない。内的事柄であれ外的事柄であれ、一つの勝利基準を目指して或る程度の道のりを歩んできて、八方塞で何処にも解決の糸口が見出せないと思えるような位置に来て、その位置でこそ自分が霊界協助の主体の立場に立てるのかどうか、絶対信仰、絶対愛、絶対服従とひとつになった基準を持てるかどうか、試験を受けている。その場で絶対信仰とは出来ると言い切れるかどうかだ。その際私の事情は無視して先ず言い切ってしまうことだ。

2009年10月11日日曜日

今日の想い 108

送られてきた血液検査の数値を妻は暫く見つめた後で、上がった、とポツリと口にした。血液中の疲労物質を表すクレアチニンの値が上がっているらしい。その意味は腎臓機能の低下だ。月に二回は検査していて、今までの値も決して低いものではなかったが、急に跳ね上がった数値を見つめる表情に落胆の色が濃い。見たくは無い新たな暗雲を予想している。いつも現実は否応なく、そして何の遠慮もなく突きつけられる。そう遠くない過去に魂を削り取られる痛みの経験を呑まされた、あの生きるのさえも諦めたいほどの全身全霊の疲労困憊を、忘れる時間さえ与えられずに又次の責めが始まるのかと案ずると、それだけで全身の力が抜け落ちる。こういう時に、神様がついていると言う言葉が思い浮かんだところで、それが何の力にも慰めにもならないだろう。事実神様は目の前の現実を容赦なく押し付け、この苦杯を受け取ることを強要されているかのようだ。嫌だと言って逃れられるものとは違う。受け入れることが服従であれば、有無を言わさぬ絶対服従だ。絶対の基準を立てることができない者は、無理にでも絶対服従させられるしかない。本人に取っても傍らの者に取ってもそれが病というものだろう。妻には生の執着がある。恐らく私よりは遥かに強い執着がある。生きて何をするかを主題に置かず、生きること自体を自分の主題に置いている。それが正しいとか正しくないとかを説明する状況に今の彼女は立ってはいない。病気と言う現実が得体の知れぬ化け物として襲い掛かっている。化け物を忌み嫌い、取り除くことのみ躍起になって感情衝動が掻き立てられる。傍らに或る自分は、ひたすら見守るしかない。見守ることしかできない責め苦を味わう。極めてこの世的で、この世的な幸せ像を手放すことができず、それが健康的な生活であったり一戸建てのマイホームであったりと、そんな形に収まることが幸せの条件であり神様の祝福であるとの認識から抜け切れないなら、それがどれ程味気なくむなしいものか気付くことはないだろう。傍目にどれほど悲惨な人生であっても、地上的責め苦を切れ目なく味わい続けるとしても、それ故に自分は内的霊的高みに飛翔することができると、受け取る苦悩を味わいながらもこの事をして為に生きる生を生きることができると、忌み嫌う苦悩を甘受しなだめる苦悩に変え、新たな行為への衝動に転化する内的意志を供える時、人間の魂は何倍にも大きくなる。甘受できる器があると踏んで、受け取る苦悩であるなら、その大きさに合わせて神様の信頼を得ていると言う事になるだろう。

茜色に想う

環状線を西に向かって走る。大学に息子を迎えに行き、キャンパスを出る頃は暮れかかってはいたものの、東の空もまだ十分明るかった。高速に入ると後ろ側から闇がゆっくりと追いかけてくるのを逃げ延びるように加速していく。西に進路を取れば高台からの穏やかな下りが暫く続く。眼前には夕日に焼けた茜雲が水平に幾つかの層を重ねてたなびいている。助手席で息子も顔を紅く染めながら、同じ風景を見るとは無しに見ているけれど、敢えて目を見張る様子でもなく、私の方からも敢えて感嘆の声を洩らすでもなくそれに触れるでもない。次第に車の速度に闇が追いついて、西の空が紅く映えるだけで辺りは暗くなってきた。五車線の光の帯が闇に浮かび上がって西の空へと続き、その先にはライトアップされたモルモンテンプルの六つの尖塔が、茜色の天を突くかのように聳えている。尖塔にある預言者モロナイの金色のラッパが、金属的な音色を今にも鳴り響かすかのようだ。朝方は小雨模様だったけれど昼時には雨雲も吹き流され、きのうの夏日と打って変わって白雲も高く空気も澄み、時折吹く秋風が肌に気持ちよい一日だった。しかし自分の内面は素直に晴れ晴れしい気持ちにはなれない。平日の売上低迷への不安を、この週末の売上で何とか払拭できればとの思いを日がな持ち続けて過ごしたけれど、それが気休めで将来的なアイデアには繋がらないことは解っている。売上からすれば、明らかにだぶついている従業員をカットすればそれでいいのかも知れないが、信仰的神霊的なものを優先する経営者としてそれで本当にいいのかという声が胸の内に響いている。アメリカの経済状態を霊視するならまさしく眼前に広がっている、闇に広がる茜雲の様相だろう。燃え尽きた消費天国の終焉を、闇に消え入りそうな残り火として茜色に映し出す。現代のモロナイとしてどういうラッパを響き渡らせればいいのだろうか。闇が押し迫るアメリカ経済に対して、み旨としてビジネスに係わって来た者として、どういう態度を取ればいいのだろうか。ラッパをどう吹いたらいいのか、店が向かう舳先を何処に向けたらいいのか、この問いに対する答えが決して単純なものではなく、重い決断を迫れるものに違いないとの観測だけはついている。

再創造としての天使世界とアダム家庭

天使長を中心とする天使世界がアダムとエバを育て、アダム家庭を完成しなければならなかった。しかし堕落することによってアダム家庭は完成を見ることが出来なかった為、神のみ旨の絶対性として諦めるという言葉は無いため、アダム家庭再創造が為されなければならない。縦横の八段階を超えられ、長子権を復帰されて八定式を宣布された御父母様は、翌年真の父母宣布をされて第一第二第三イスラエル圏の領域全てはエデンの園であり善霊が天使世界に匹敵するようにされた。更に1998年、祝福天宙化とサタン血統根絶を為すべく、大量祝福と霊界の開放祝福を通して先祖の再創造が為され、霊人家庭を中心とする天使長自由環境圏を築かれたことでエデンの園の多くのアダム家庭が生まれていく。我々は第二第三の真の父母とならなければならない。摂理の最終段階として祝福を通して神様の血統を相続した人々が霊界にも肉界にもいる為、神様は思いのままに、即ち蕩減条件なくして再創造、復帰摂理を全権を持って推し進められる。私という存在は私が立っている位置で、その信念を持って相対的立場に立てるかどうかが問われている。我々はその意味で大胆にならなければならない。御父母様の勝利圏を相続した主体的立場に立って進んでいく。霊的な人なら分かる事だけれど、取りすがる霊に対して気弱な姿勢を取れば霊はますます図に載って押さえ込もうとする。逆に強気な態度で臨めば一瞬にして消え去る。私が主体的信念と主体的態度で臨まずに誰が主体になれるのか。祝福先祖が協助できる基盤は私が主体の位置を揺るがないものにした時、即ち絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつとなることで展開できる。御父母様に対して完全マイナス、絶対相対の位置に立つことで御父母様とひとつとなり、御父母様の勝利圏と全権を戴いて主体の立場に立つ。或る意味、御父母様を背後に立てて傲慢さを押し出すくらいがおとなしい兄弟にはちょうどいいかも知れない。

2009年10月10日土曜日

人間の本質を考える

胚種の成分を見れば蛋白質でしかないし、その蛋白質をどれほど分解してみても炭素、酸素、窒素、水素などの元素が確認されるだけで、胚種の中にひとつの植物の全ての原型が刻印されていることなど分かり様もない。それは受精卵を見ても同じことが言える。その中に生命体としての情報や遺伝されるべき情報をどれだけ探しても見つかる事はない。それでは人間の受精卵の中に生命体としての情報が組み込まれ、遺伝すべき情報が本当に刻印されているのだろうか。地上に於ける生命体の全ては地上的物質的な力と宇宙的生命的な力を取り込むことで、生命を維持しているが、生殖、繁殖に係わる事柄の全ては、地上的物質的な力は排除され、宇宙的生命的な力が働く事によって可能にしている。御父様が訓読会の場で女性から女性が生まれるのは理解できるとしても、女性から男性が生まれる理由をどう理解するのか、と我々に問いを投げかけられる。男性精子と女性卵子が結合することで新しい生命が誕生するのであって、であれば女性から男性が生まれる事への疑問が生じること事態がおかしいと普通であれば思うだろう。御父様は地上的物質的な力や作用を見るのでなく宇宙的生命的な力や作用を見るのでなければ、生殖繁殖の秘密を明らかにすることは出来ないと話されたいのだ。妊婦が男の子を孕んでいる場合、十月十日自分の中に違う性を宿しながら、自分とは違う器官を形成しなければならない。生殖過程が地上的物質的な力や作用によるのであれば同じものからは同じものを排出するだけなのだ。受精卵は組織立てられ全ての情報が組み込まれた蛋白質の塊ではなく、地上的物質的なものの力や作用を受けることのない0蛋白質、混沌蛋白質の状態にある。宇宙の創造が混沌期から生じたように、無の境地に於いて宇宙的生命的な力と作用が働く。その力と作用は母体の中に宇宙空間を築き、へその緒を通してその力と作用が投入され組み込まれていく。或る世代から次の世代へと移る際、蛋白質が宇宙全体に宇宙の塵となって曝される。曝されることで宇宙的生命的なものを受け取り、宇宙的生命的なものに流れる霊的心魂的存在を肉体形状に映し出す。人間は地上的物質的な力や作用より遥かに大きな宇宙的生命的力と作用、更には成長するに従って霊的心魂的力と作用を受け取りながら霊界生活への準備をしている。しかし内的霊的なものを無視し、地上的物質的な価値観に留まると、歴史に於いて心魂存在から動物存在を取り残して人間存在として発展したように、高次の人間存在としての発展から取り残された低次元の人間存在という別人種存在として取り残されてしまう。

2009年10月9日金曜日

本質を見る力を得よう

自分という存在を独立した魂の存在として皮膚の内側を自分とし、外側を他として認識するけれど、本来自分という存在は、歴史と切り離されたり周囲と切り離された存在ではない。歴史全体の一分枝であり宇宙全体の一分枝であることを認め、自分という存在の中に歴史上の出来事の反映を見ることができ、世界の出来事の反映を見る必要がある。唯物的概念や思考から宇宙についての真実を受け取ることは無い。悟性に頼り、科学的分析に頼ることで宇宙の真実を手に入れようとすること自体、全くもって的外れな行動と言わざるをえない。歴史の研究家がどれほど古代遺跡を調べ、更なる過去の歴史に目を向けるとしても、せいぜい遺跡と言う外的物質を残せた時期までのことで、人類歴史をアダムとエバに遡り、更に宇宙生成の起源にまで目を向けるなら、今で言う物質や肉体という形を取らずに人類歴史も宇宙生成も流れてきた時期のほうが遥かに長いのだ。外的歴史は極めて表面的な歴史の捉え方であり、歴史の本質は外的歴史の背後に流れ、根底に流れる内的霊的なものを見届けない限り、表面的なものに踊らされ惑わせられていることになる。唯物的な囚われ、表面的な惑わしを外界から受け取る全ての感覚的認識内容、思考的認識内容から分別できる者となることが必要だ。訓読会の御父様のみ言を受け取るときに、そういった堕落的、地上的、唯物的、表面的な認識力を一旦否定し、内的霊的、心魂的、本質的な認識力を強く強くしながら、語られるみ言の霊を受け取る者となる。その次元に於いては、個としての自分は超えている。悠久なる歴史全てを生きてきた自分であり、霊界地上界全ての人間存在を生きている自分という感覚になっているはずだ。御父様は語って語って又語られる。神様がロゴスをして天地創造を為されたように、語るという内的行為を通して生命創造を為されている。吐く息に言葉の形が刻印されながら口から流れ出る時、下方にある胸部腹部や四肢への波を送られながら心情、意志を発動され外界地上界に働きかけられる。また上方、頭部への熱様相の波を送られながら思考内容と結びつき、内界霊界へと働きかけられる。御父様のみ言を語られる活動は擬人化された天地創造過程に他ならない。

2009年10月7日水曜日

み言に対する姿勢

み言から受け取るものを生活体験以上に実感する者となる。み言に生きる自分を実感してこそみ言がみ言として受け取られたのだと言える。入教した当時、勤労青年達が共同生活をしながら信仰生活をなす青年部という部署に配属され、その宿舎から通いで仕事をしている兄弟姉妹達と寝起きを共にしていた。部長の位置にあった信仰の先輩は、他の部署の責任者に勝るとも劣らず、強烈な個性を備えた人だった。今思うと、私の前に立てられた色々な中心者から御父様の雰囲気を感じ取れたかと言うと、意外とそうでもなかったように思う。しかし当時の兄弟達にとっては明らかにカリスマ性に似たものを中心者に見ていたはずだ。み言から受け取るものではなく、その中心者から受け取る熱の波動を信仰の力としていた時期があった。その当時の内的在り様や雰囲気そのままに、今の時代を強引にも押し通そうとする責任者や、虫けらのような内的扱いを当然のこととして受け入れてきた事で、罪人の様に頭を落とし前進する力を未だに見出せない兄弟がいるように、新しい時代圏に於いて飛躍的次元上昇の過程に乗る事が出来ずに、取り残されようとする者になってはいないだろうか。訓読会の御父様のみ言に集中し、没頭すれば、目新しい言葉や内容が幾らでも飛び出してくる。もはや数年前の原理用語だけをひたすら理解しようとしていた悟性では、理解はおろかついて行く事さえもできない。八定式からの目まぐるしい摂理展開やありとあらゆる儀式や宣布、それに伴うみ言も堕落人間の概念や思考では雲を掴むような抽象的事柄として、曖昧に受け取ることしか出来ない。御父様に何処までも何処までもついて行こうと思うなら、お父様に完全に帰依しなければならないし、完全に帰依する為には御父様が語られるみ言を理解しなければならない。もはや知的悟性で理解できる範疇は超えている。み言は頭で理解するものではない。み言にある宇宙の秘密を知ろうと思えば、もっと集中した態度で自分の全てを感覚器官とし、心魂を霊界領域に踏み込ませてみ言の霊を受け取るのでなければ、数字の秘密を初めとする全てのみ言はその世界を開示することはない。

今日の想い 107

愛という言葉が巷で氾濫し、好きなように使われているけれど、それは偽りの愛のことを指すのであって真の愛とは違う。偽りの愛は感覚のみが好む、愛と名付けた偽物。見るに美しく触れるに柔らかく、聞くに心地よく嗅ぐに芳しい。真の愛にも勿論、感覚的に満たされるものも含まれているだろう。しかしそれは愛を与えた結果として受け取るもので、感覚的要求に即座に応えるものとは違う。肉的感覚を満たそうとする意志に応えるものは偽りの愛であり、他の為を思わず自己の為にという動機に関与している。自分という存在が他の為に生きる動機をもって人生を歩むなら、真の愛が係わり真の愛で霊なる体も培われるだろう。しかし逆に自己の要求を満たしたいという動機で全ての地上生活が為されるなら、偽りの愛が係わり偽りの愛は霊なる体を蝕むばかりで霊界を生きる力は育めない。堕落の血筋によって堕落的衝動が私の血に流れている。肉的感覚を満たそうとする衝動が私の血に息づいている。悪魔的その衝動が熱を帯び、沸々と湧き溢れ、この表情からこの肉体から偽りの愛を引き付ける吸着物を滲ませ発散させる。それが堕落人間の偽らざる姿なのだ。肉的感覚を満たしたい一心で生を繋ぐ。それが空しいことで真の愛を魂の奥で求めているにも拘らず、それを無視して生きている。魂の奥にある真の愛に生きようとする存在こそ本当の自分なのだ。その本当の自分が偽りの自分に魂の奥底に追い遣られている。堕落性という偽りの本性がさも私と言う存在の在り様なのだと言い聞かせている霊的存在を見なければならない。あらゆる自己中心の思い、感情、衝動に背後に操る霊的存在を診なければならない。見るに美しく触れるに柔らかい艶やかな皮膚に覆われたその下に、蛆虫の様にうごめくどす黒い代物を見なければならない。聞くに心地よく嗅ぐに芳しいヒューマニズムの理想を奏でる旋律に、肉的感覚の奴隷となる快楽文化の結末として、屍が累々と重なる様を見なければならない。見たくなくても見ざるを得ない御父様は、我々と同じ体でこの世という地上地獄に降りられて、地獄の撤廃活動を為されている。久々にワシントンに来られた御父様の十時間に及ぶ訓読会は強い語気を吐かれながら、御父母様の留守の間に寄り付き跋扈する悪なる霊存在を蹴散らしておられた。

2009年10月5日月曜日

叫び

夜明け直前が最も闇が濃いと言う。闇に巣食われ、魂の深いところまで侵入される頃合に、やっと一条の光が差し込む。逃げ場の無いやりきれなさで魂をすり減らし、何処に希望の糸口を見出せばいいのかわからない。過去に於いて何度も何度も追い込まれながらも、その都度、崖っぷちでこそ気付きを受け取っていた。その信仰を失うべきではないだろう。その信仰を失うべきではないけれど、新たな試練が寄せ来るたびにその信仰が試される。内なる魂に於いてその状況を高みから見通せることなど出来ようもない。試練の荒波に翻弄されながら揉まれるがままに任せるしかないのか。抗えば抗うほど闇の底に引きずり込まれる。起こり来る思いと感情の中に神から来るものを見出せず、自分という存在が神から見捨てられているとしか思えない。その状況で、それでも自分は神の子なのだ、真の父母を親父でありお袋と呼べる自分なのだと、闇に向かって言い放つ自分を取り戻すことだ。許されようが許されまいが今の時点ではどうだっていいのだ。断食の初日にフルマラソンを走りぬいて、残った日々を生き延びれるかどうかを憂える必要はないのだ。今の今、真の御父母様と魂の底から声を発する自分であればそれでいいのだ。先々の事を思い遣っても、その思いに未来を変える力はない。サタンに負の条件として差し出すものはあっても、神様に手を伸ばす力とはなり得ない。たとえ地獄の底から発する声が力弱く、闇に消されるようであっても、呼び続ける事で光を呼び寄せることができる。精誠を積み重ねる事で必ず闇の中に一条の光が差し込む。そのことの確信が、勝利された真の父母の息子として勝利を相続できる自分なのだ。闇は濃く強く魂の内側に浸透し、そこに希望は微塵も見出せない。しかしその場でこそ自分は真の父母の息子であると言い放つ。息絶え絶えの状況で言い放つ。