2010年5月8日土曜日

今日の想い 171

創造性を喚起しない主管は主管という言葉すら当てはまらない。関係性が自己中心的なものに偏っていく。主管性転倒であるとか主管性復帰だとかを、主管の概念として上が下を服従させるというような支配被支配的な感覚を持ち込むと誤った認識になる。自分が主体の位置で或る対象に対する時、自分が関係することで対象の力が発揮され、対象自身に新たな価値創造が為されるならば、それこそが主管性と言えるものに違いない。そしてそこには愛が投入され愛が力とならなければ創造は産みだされない。主体と対象の間に愛は触媒作用として働き、対象は変容していく。主管とは愛の眼差しで対象自身が気付かなかった未来への希望を見せること。愛の言葉をかけて対象に創造への意志を持たせること。本然の主体対象関係を築いているかどうかはそこに創造が見られるかどうかだ。主体が権威をひけらかせば対象は卑屈になるだけだろう。その場に創造性が発揮されるとは思えない。真の父母の名のもとにあれば全ては許され全ては善しとされる風潮が未だにあるけれど、新しい時代圏に入れば内の中でこそ改革が要求される。万物を主管するにあたって新たな光を誘引し、万物は喜びの内に主管されることで新たな創造を誘引する。自分の周囲にある存在が活き活きとし、光を発しているかを問わなければならない。手にする食物が、目に飛び込む景色が、風の音や鳥のさえずりが、それらの対象への愛おしさのなかで活き活きとし光を発しているだろうか。私と言う霊肉の身体の責任者であり主管者である自我が、霊肉の身体に対してそういう意味での主管性を立てているだろうか。組織の責任者であり主管者に位置するものが、組織を統べるに当たって愛の主管性を立てているだろうか。お父様が全ての壁や障壁を取り払われた意味を噛みしめるなら、旧態依然の組織には大きな障壁が残っているように思う。上に立つ者が権威意識を持っていたり、下に位置する者が上に対して卑下する意識があるなら、そこには厳然と障壁が残ったままだと言うことになる。

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