2010年5月18日火曜日

今日の嘆き

生活の為にもみ旨の為にも、生きている限り経済活動は付いて回る。店を経営して思うのは、技術の発展をもって生産の向上、利益の増加を図るためには、根底に店をマネージする者の自主性が担保されなければ出てこない話だ。店を出すにも会社を立ち上げるにも、当の本人に自主性の土壌が備わっていてこそ出来るもので、他の誰かに強請されて出来るものでも育つものでもない。我々のビジネスの多くがうまくいかないのは、そこに自主性が無いからだ。要するにそこにMUSTはあるけれど、WANT-TOが育たない以上ビジネスの成功は有り得ない。ひとつのビジネスを立ち上げるに当たって、摂理の要求だ、天の願いだと資本を投じるけれど、経営に携わる者が抱えきれないほどのMUSTを背負い、逃げ出したい思いの方が殉ずる思いより強くてうまくいくはずがない。そうやって失敗を重ねて来ながら、本来責任を取るべきゴーサインを出したものが責任を取っていないところに甘えがある。この世に於いて会社であれば責任者が首をかけるだろうし、個人出資であれば相当の財産を失い更に恐ろしい借金返済が待っている。しかし我々は失敗しても誰も責任を取ってはいない。誰かが何かの形で責任を取るのが原理原則であるにも拘らず、誰も責任を取ってはいないし取ろうともしない。出来ないことが常習化し、甘えが常習化してしまった個人も組織もこの世からすれば笑いものなのだ。み旨ごっこをしている側でサタンがほくそ笑んでいる。摂理の為に汗を流している私として認識しているかも知れないけれど、実は御父様の顔に泥を塗っている。本来御父様の御顔を仰ぎ見ることすら出来ないほどの体たらくなのだ。お金の重さも時間の重さも言葉の重さも、何も分かってはいない。分かっていない者は悔い改めることすら出来ない。

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