2010年5月16日日曜日

振り返れば愛

振り返れば、全ては神様の愛だった。並みの人間では超えられない、次から次へと押し寄せてくる労苦や責め苦を、内的にも実体的にも受け止めて来られた御父様の血と汗と涙の人生を振り返られながら、それが神様の愛であったと言われる御心情はあまりにも重い。あまりにも深くあまりにも気高く、そしてあまりにも悲しい。犠牲と言う存在が皮膚をまとっておられると言えるような御父様であられ、魂にも肉体にもぼろぎれになるまで鞭打ちの仕打ちを受けられた、その尋常ではない痛みや慟哭をして神様の愛であったとされ、それを言葉通りに取るなら受けた痛みを結果的に自分が欲したものとして歓迎しておられると言うことになる。そこには自分が死ぬことで必ず全体が生きる、全体を生かす為には自分は犠牲になることが本望だという揺ぎ無い意志が御父様の魂の在り様としてある。全体というと私との関係性は感じないのかも知れないが、全体であるけれども人間一人一人でもある。御父様が、自分が死ぬことで必ずあなたが生きる、あなたを生かす為には自分は犠牲になることが本望だと私に向かって言っておられると、そう言い換えてもいい。それこそが御父様の愛、真の愛なのだ。御父様のその痛々しい想いを誰でもないこの私に、子に対する父として抱いておられる。その実感が私達にはあるだろうか。御父様は私達を自分の子でなかったらいったいあなたは何なのだと言われるほどに、私達は御父様の子以外何者でもないと思っておられるはずだ。しかし私達が御父様に対するとき、御父様の想いと同じ想いを抱いているだろうか。大きな温度差がそこにはある。犠牲の道を愛だったと語られるのは、犠牲を代価として受け取ったものが今にしてみれば見えると言うことだ。犠牲は誰の為でもない愛する子供の為だ。私達であり人類である子の為に犠牲は捧げられ、私達が生き人類が生きることができるのを見て愛であった、愛の勝利だと喜ばれる。私達が過ぎ去った昔を懐かしく想うように、過去の苦労もひとしおだったと感慨にふけられたそんな言葉ではなく、それは思い出すのもおぞましく慟哭せざるを得ない程の触れたくない事柄であるに違いなく、しかしサタンに勝利されて結果として私達が生きるのを見て語られた言葉に違いない。

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