2010年5月22日土曜日

今日の想い 172

洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信をひきおこすようになったのである。 講論第四章 メシヤの降臨とその再臨の目的より
堕落人間がどれほどうつろいやすい者であるか、自分と付き合っていれば良く分かる。洗礼ヨハネでさえそうなのだから、サタンが本気を出したら私などひとたまりもないだろう。天的な自分へ向かうベクトルが意志の在り様としてあるのか、或いは堕落的な自分に立ち戻ろうとする衝動を許して、仕様が無い感に埋もれているのか、自分という存在も良く分かっていないし、よって自分を主管できずにいる。洗礼ヨハネの無知は弟子をイエスに送って、来るべき方は貴方なのかそれとも他に誰かを待つべきか、と質問するに到った。天はイエスが誰であるかを彼に教え、そして既に彼の口を通して証言させてもいる。それにも拘わらず頓珍漢なのは無知ゆえだと言うのだ。洗礼ヨハネの人物像を把握できないから何とももどかしいところではあるけれど、イエス様をして彼を無知だと言わしめているし、この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者はひとりもいなかったとパウロは言っている。この場合の知恵があるとか無知だとかと言う意味は、メシヤに対する理解度の事を言うのだろう。洗礼ヨハネの捉える(信じる)来るべき方のイメージ像と目の前のイエス様とが重ならず、結局彼はイエス様とは別行動を取り、彼が捉えるところの来るべき方を待つ愚かさに堕ちてしまった。私達は御父様を再臨のメシヤであると信じてはいる。しかし信じるという言葉は主観的であり、私自身はそれを無知の克服だと疑わないにしても、御父様からそれぞれを見る時、ピンからキリまでの御父様に対する内的霊的或いは心情的理解度という知恵段階があるに違いない。私達のメシヤ観は極めて無知に近い知であるかも知れない。ましてや路傍で声をかけられて初めてメシヤと言う言葉を知ったような者が、直ぐにも知恵が備わっているとはとても言えないだろう。私なりに信じ、私なりの信仰観でいいとする者がいるなら、それこそ無知の極みに違いない。御父様が私を見て、本当に私の子だと認めて下さるように、御父様に対する無知を克服し、御父様の心情圏に飛び込んでいける私でありたい。その衝動熱が常に内面にあることを確認しながら、御父様の心情を探し尋ねる今日の一日が始まる。

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