2010年5月30日日曜日

キリスト教を考える PART4

復活40日をもって霊的信仰基台を立てられ、霊的洗礼ヨハネの使命者としての復活イエス様を信じ仕えることで霊的実体基台を復帰され、霊的メシヤとなられたイエス様は聖霊を復帰されて霊的真の父母となられ、重生の摂理をされる。聖霊降臨(ペンテコステ)を、原理ではそのように霊的重生として説明されている。聖書では使徒行伝に聖霊降臨の様子が書かれているけれど、一同が集まった場でそれぞれが異言を語りだす等、現代人にすれば何とも如何わしい、カルト的な雰囲気が情景として浮かぶ。当時の知的事情からすれば、弟子が権能を与えられて奇跡を起こしたり、予言を吐いたりすることは畏れ多い事柄であったのだろう。しかし外的なことのみをイメージしてペンテコステの本質を見落すなら、私達はクリスチャンである第二イスラエル以上の存在にはなれない。私達が真の父母によって祝福を頂き重生するように、霊的イエスと聖霊によって霊的重生が為された。聖霊が下り満たされた魂を覚え、魂の中から光を放つ生へと生まれ変わった。それは星々の力が魂に下り光り輝く存在になったと言うことが出来る。降臨祭が地球生命体の再生、蘇りであり、復活祭が太陽存在の地球関与、贈り物であるなら、聖霊降臨祭は星々の地上的誕生、重生だ。夜空を仰げば宇宙の心魂の象徴としての星々を見ている。宇宙の心魂が重生を受ける者達に下り、宇宙の心魂として光を放つ。霊的重生を受けた弟子達やクリスチャン達の、迫害や殉教を超えるほどの光り輝く心魂様相に比べ、私が祝福を戴いて重生したことによる心魂はそれ以上に光り輝いているだろうか。霊的重生が受動的なものであるのに対して、祝福を戴くことでの重生は能動的に為されるものだろう。自分で意志を働かさないのであれば、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになることは出来ない。クリスチャンは反射鏡として光を放つのに対して、成約の群れひとりひとりはそれ自体が光を放つ存在となる。弟子達が奇跡の権威を与えられるのと、私達が御父様から祝福の権威を授けられるのと、どちらが重いか考えてみたことがあるだろうか。

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