2010年5月23日日曜日

鶴のヒマラヤ越え

朝目覚めて夜床に付くまで、過ぎ行く一秒一秒を主管的創造的人間として生きるとは、この一秒一秒に意志を刻印していくことだ。流されている映像が視覚に飛び込んでくるままの私状態を放置したり、何のやる気も起こらず倦怠状態に身を曝したり、それは体は起きているのかも知れないが霊的な仮死状態にある。嫌でも身に降りかかってくる困難や試練に対しては、それなりの意志を差し出して、目覚めている意識を生きているけれど、困難が遠のき、対処すべき事柄への意識が薄くなると途端に内的霊的に眠ってしまおうとする。御父様に本当の意味で出会おうとするなら、多くの乗り越えるべき障害が前を塞いでいることが、はっきりと見えなければならない。困難が立ち塞がっているのを自覚している時以上に、気を許し安堵している時の方が内的霊的には返って危険で奪われやすい。有り得ない事かも知れないが、内的霊的眠りに完全に落ち込んでしまえば人間の形をした動物になってしまうだろう。どれほど些細な煩わしさも避けようとし、どんな責任もリスクも負うのを拒めば、人間としての内的霊的成長は望めない。常に人間には、精神的高みを目指そうとする意志する魂を持つ反面、高みへのベクトルが弱くなると動物的な在り様に身を落して楽になりたい退化指向が働く。高みに向かおうとする意志が弱り、翼の膂力が落ちてくるといくらでも転げ落ちていくのだ。空気の極めて希薄な成層圏にまで高度を上げながら、ヒマラヤ越えを果敢に遂行する鶴の群れに見るあの意志こそ、私達は学ばなければならない。一度と無く何度も失敗し、羽を痛め仲間を失おうとも、それでも8000メートルのヒマラヤの壁に立ち向かう、あの意志を私の意志とするのだ。私達は精神の高みを目指しながらも、いつのまにか落ち着きどころを勝手に決めて安住してしまっている。国の救い、世界の救い、人類の救い、そこにかける想いは遠い昔に遠のきながらも、真の父母の名を唱えることで自分を誤魔化してはいないだろうか。過ぎ行く一瞬一瞬に意志を刻印していく存在になることだ。再度御父母様が居られる精神の高みを視線の先に見ながら、決意と覚悟を刻み込み、祈りを刻み込み、そして心情を刻み込んでいく。

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