2010年5月27日木曜日

敢えて性について考えてみる

男性は女性を必要とし、女性は男性を必要とする。御父様のこの言葉をどのように捉えるか。堕落的な感覚に任せた認識であれば、肉欲的なものに限るか或いは肉欲的なものが中心となった認識になるに違いない。男性が女性を、女性が男性を必要とするのは感覚的欲求のままに、感覚的欲望を満たす為に必要だと言っておられるのではないはずだ。男女間のこの感覚的な引力が、本然の人間であっても当てはまるのか、堕落人間と同じ感覚的引力が働くのか見通すことはできるのだろうか。祝福を受けて、相対を決められて、この一人の相対を通して神様に出会うことができる。そう信じてお互いの関わりを深くしていく。実体の御父母様を戴くことで、御父母様の夫婦としての在り様に学びながら、相対とひとつになっていこうとする。しかしひとつになっていなくても相対を与えられた時点で身体を合わせてひとつにすることは出来る。そして身体を重ねるたびに人間としての陽陰の一体がそこに育まれるかと言うとそれはない。性に関してはそこに非情な深淵が存在している。闇雲に身体を求め欲求のままに身体を重ねても、抑え切れない衝動に踊らされて事に到った自分を認識するだけで、性に対する深淵を垣間見ることすら出来ない。絶対”性”と言う言葉の意味を、相対以外とは関係を持たないと言うことだけに限っていいものだろうか。それは勿論当然であるとしても絶対”性”という言葉にはそれ以上の意味があるはずだ。絶対”性”をして神様に会うことができる何かがあるはずだ。性に対する欲求を超えたところに立つ事で初めて、性に対する堕落的概念を超えた性に存在する深淵に足を踏み入れ、光を当てることが出来る。男性である私であれば相対を通して陰の深みに何処までも尋ねて行きながら、新たな創造の生命として陰陽がスパークする多次元世界への出会いが溢れているに違いない。御父様が、夫婦関係を持たないようにと指示されてこられた意味を思うとき、堕落的な感覚と堕落的な性への概念を超えない限り、性は堕落のステージに留まったままだろう。一方で産まれたままの姿で夫婦で休む様に言われ、その一方で関係を持たないように言われたその事が、堕落的に捉えれば矛盾しているように思えるけれど、本然の性、絶対”性”に目覚めて欲しいという願いがその言葉に込められている。何らかの条件的要件とも捉えられるけれど、性への本質を受け取る為の要件として見るべきだろう。

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