2010年5月21日金曜日

富士を仰いで

日本人であれば誰でも富士への憧れが魂の何処かにある。富士に対する時、日本人として同じ感情を魂に起こすはずだ。大和の国に生まれた日本人としての誇りも魂も失いつつある今、誰もが富士を仰ぎ見ることを改めて思い起こさなければならない。霊峰富士に向かい受け取るもので、眼を自分に自分に向けることしかしなかった日本人が、全体意識を取り戻してひとつになる事が出来る。誇りと魂を取り戻せる。眼を覆いたくなるような出来事が毎日のように起こり、いつのまにかその異常が当然のように受け止められ見向きもしない。堕ちた国民が望むままに耳に甘い言葉ばかりを政治家は繰り返し、貰い受けることばかりに馴らされれば国民の魂は糖尿病化してしまう。国の為にという意識は壊疽してしまい、その内に自分で立ち上がることすら出来なくなる。誰がこの国を愛し、誰がこの国を憂いているのか。かつて救国の旗を掲げて立ち上がった我々は、今の日本の惨状を目の前にしながらどう想うべきだろう。摂理の前に身を挺して来たことはその通りで誰もが認めるにしても、では今の日本の惨状を他人事の様に眺められるだろうか。日本食口にとっては揶揄され迫害されてきたことで日本への嫌気感ばかりが増して来ただろうし、この国が堕ちていくことに対して仕方の無いことで自分の魂の生命は別のところにあるのかも知れない。救いの手を伸べるのは対するひとりひとりであって、救国の想いは薄いのかも知れない。歴史的事実としても摂理的観点からしても、日本は大罪を犯してきたしそう言われ続けてきた。だからと言って日本の食口が日本を愛さなくて誰が愛するのだろう。日本人として身が消えるほどに指弾されながらも、悔しい想いを収めて敢えて甘受しながら摂理に貢献して来たのは日本がそれで許され救われる為ではなかったのか。日本が沈没し太平洋の藻屑となることが分かった時、日本の食口は他の人々を捨て、いち早く朝鮮半島にでも逃げるのだろうか。最後の最後まで救国を叫び日本と共に滅びる覚悟をする者はいないのだろうか。富士を仰いで決意を迫られる時が来る。御父様の指示のままに大移動するにしろ、最後の最後まで救国を叫ぶにしろ、それぞれの良心に従い決意と覚悟を供える時が来る。

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