2010年5月14日金曜日

意識革命

何々しなければならない、と言う意志への強要は、本人に創造性を喚起することはないと思う。しなければならない、と言う言葉には、実はしたくはないのだけれどその意志に反してそうするように自分を追い詰める、という意味合いが根底にある。私だけなのかも知れないけれど、今までの歩みの中でどれ程MUSTを積み重ねてきたことか。意志への強要を迫りながら、どれ程無残にも果たせなかった墓石が荒涼とした過去の足跡に累々と横たわっていることか。蕩減の時代は終わったと話された意味を自分なりに熟考してみた。全体蕩減は終わったけれど個人の蕩減が残されているという意味は何なのか。蕩減に於いて全体と個人の関係性が無いのなら、全体勝利の為に歩んできた個人の歩みは無駄だったという事にはならないか。はっきりとした論理性を持って原理的に蕩減に関する事柄を説明することは先輩の諸先生方に任せるとして、私が気付かされた霊的気付きに拠ると、蕩減時代はMUSTの時代であり、蕩減が終わるとWANT-TOの時代が開かれる。何々しなければならない、と言う否定形の意志への強要が、何々したいと言う肯定形の意志活動になる事を意味している。蕩減が終わったと語られた恩恵に自分もあずかる為には、MUSTとWANT-TOの意志活動の大きな違い、意識次元の違いを内的霊的に理解把握して、WANT-TO意識を意志と言う魂活動の主軸に供えるべきだ。MUST意識がカイン意識なら、WANT-TO意識はアベル意識だ。WANT-TO意識に意識次元をステップアップすることで御父様が勝利された内的霊的内容を相続することができる。MUST意識が悪と言うことではなく、WANT-TO意識が意識の主体になると言うことだ。昔聞いた根暗の統一教会、根明の創価学会と言う風刺はなかなか的を得ていると思ったものだが、御利益信仰に見る魂の上っ面の表面的感情的な肯定気分で自我の中枢にあるものを誤魔化すのではなく、御父母様に拠って生まれ変わった自我から溢れる肯定感情、肯定意志をそこに見る者となる。献金にしろ活動にしろ、やらされ感が自分の中にある以上、やらないよりやったほうが、、、と思うかも知れないが、寧ろやらないほうがいいと思う。それで不安を覚えるかも知れないがそれは良心の声とは明らかに違う。周りに合わせなければと言う、ひとつの逃げでありMUST意識だ。目の前に献金や活動を提示されて、私がこれをやりたいと、私のWANT-TO意志を発動させるまで自分に深く尋ねることだ。それを祈祷と言ってもいいかも知れない。別に献金や活動に関わらず生活の全ての部分にこのWANT-TO意識を積み上げることで明らかに霊的背景は百八十度転換する。転換して新しい次元界にステップアップする。私は変わったと言い切れる。御父様の勝利圏を相続でき、み言は魂に染み入る。

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