2010年5月28日金曜日
キリスト教を考える
御父母様は真の父母であられるけれど、イエス様が築かれたキリスト教基盤の上に立たれて、完成期の摂理を進めてこられた。呼び名は違えどそれぞれの宗教が一人の救世存在を求めては来たが、選ばれた中心的宗教はキリスト教であり、キリスト教が言うところの再臨のメシヤとして救世存在は集約される。旧約、新約、成約として受け継がれてきた中心的なものがあり、旧約の摂理を上書きする形で新約の摂理があり、更に新約の摂理を上書きする形で成約の摂理が為されている筈だ。であればキリスト教とキリスト精神に流れているものを知らずに、或いは無視して、成約の摂理を理解することは出来ない。キリスト教の背景を持たずに釣り上げられた者達に取って、摂理に対する理解を内外共に深める為には、キリスト教を学ぶ必要がある。キリスト精神として流れているものを知ろうとせずに、原理のみ言や摂理の意義を知ることができると思うのは正しくない。祝福の意義も昇華式の意義も、本当に知りたいと思うなら、イエス様の霊的勝利の上に築かれたキリスト教に息づくものを魂に響き霊的影響を受けるほどに学ぶ必要がある。キリスト教の祭事として、降誕祭、復活祭、そして聖霊降臨祭とあるが、巷に溢れた形骸化してしまったものをそれぞれの認識として捉えても、そこから霊的勝利は伝わっては来ない。とても一言で説明できる様な事では無いけれど、それぞれに魂を蘇生させる別様の力が備わっており、特に初期に於けるキリスト教徒はそれらの力を受け取って来た。そう言った霊的勝利の息吹を魂が感じ取ってこそ、イエス様の愛を魂に浸透させたクリスチャンを超えることが出来るのであって、そこを通過せずに原理のみ言を投げかけても、彼らにすれば魂を傷つけるカミソリとしてしか受け取れないだろうし、ましてやキリスト教は失敗した等と言える立場ではさらさら無い。復帰された牧師達に接する御父様を何度か眼にしてきたが、路傍で引っ掛けられた者達に対するのとは明らかに違う態度を取られる。勿論相手が誰であれ投入される愛に変わりは無いにしても、投げかけて返って来る反応に対して共鳴するものを感じておられるのを見る。
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