2010年7月3日土曜日
三隅のつつじ
浜田をまわって9号線を西に走れば時間的には近かったと思うけれど、父はわざわざ山奥を抜ける蛇の様に曲がりくねった細い県道を走らせた。道に迫り出した樹木の枝葉に陽は遮られ、小さな車一台通るのもやっとで、とても速度を出せるような道ではない。それでも父はこれが近道だと言うので、そう言うことにして頷いたけれど、国道へ回り道をしていればもっと早く着いただろうにと言う思いは残ったまま運転し続けた。林道に近い道を半時間難儀しながら、最後のカーブをハンドル目一杯切って回りきると、大きな車道に出た。ほら穴を抜け出たように視界が一変に開けた。そこから目的地まではものの十分もかからず、国道を右にそれ集落の中を通り抜けると三隅公園の表示が現れた。石灯籠に挟まれた神社の参道が前に延び、粗末な矢印表示に従って右の駐車場に乗り上げると、色鮮やかな山壁が突然目の前に姿を現した。フロントガラスに身を乗り出して上方に覗き込んでも、更に上の方まで色彩は延びていて、空の青への境が見届けられない。一同、車の中で歓声が起こった。逸る気持ちを抑えながら丁寧に駐車すると、カメラを手に外に飛び出した。そそり立つ山壁の全域にツツジが植えられていて、色鮮やかな小振りの花々は満開で、位置によっては全体が大きくせり出してもいる。大して感情表現はしない父や母も流石に驚いたようで、見事なことだと何度も洩らしながら首を巡らしていた。前日の雨模様に潤った花々は、快晴の空の青を背景に、五月の太陽の光を赤紫(あかむらさき)、薄紅(うすくれない)、薄桃色、純白、それぞれに反射しながら、甘い香りと共に、見るものを四方からも上からも包み込んでいる。父は足が弱く、妻も病から来る慢性貧血で階段を上ることすらできないので、ツツジの花の中を縫うように登って行く鑑賞の為の登り道を歩くことは出来なかったけれど、下から見るだけでも十分に酔うことが出来た。あと十日もすれば全ての花は一斉に枯れ始めるだろうに、後先を考えず今を精一杯咲き誇っている。一片丹心の化身のような、この一途な花に対する畏敬の気持ちを持たなければこの場に立つことは許されない。花々の何層にも重ねられた精誠が天に向いて咲き、音を紡ぎ出してこだましている。この場で心の耳を傾ければ、弦楽重奏のように物質界の音を超えた音で楽曲を奏でているのを感じ取る。私の感情魂が受け取って共鳴し、内面に響き渡り、いくら贅を尽くした者もこの贅沢には及ばないだろう。町内会の露天で父が注文した、たこ焼きとコーヒーというアンバランスに苦笑しながらも、挽きたてのコーヒーを啜りながら、皆でこの一期一会を味わっていることに感謝した。
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