2010年7月14日水曜日
私の想い
先輩が説明されるように、確かに御父様は疑われることはされないのだろう。誰の報告であっても信じられ、その報告をもとに新たな指示をだされるのだろう。では報告の中に偽りが盛られていた場合、どうなるのか。虚偽を真実とされた上で出された指示も指示には違いない。御父様の指示である以上従わざるを得ない。しかしそこに真の家庭の痛みが伴うならどうだろうか。真の家庭を引き裂きかねない苦渋の選択であっても、御父様は立場上その指示を出さざるを得なかったとしたらどうだろうか。何度も何度も筆を止められながら、断罪する言葉を色紙の上に連ねることを自らに強いられる、あの映像を誰がまともに見続けることができるだろうか。心情主義を御父様から学び、父母の心情の重みを少しでも知るものなら直視に耐えられるものではない。御父様の痛みの少しでも想い測ろうとするなら、指示が出ている以上その指示に従うまでだと簡単に言ってのけることなど出来ようはずがない。たとえ結論として指示に従うとしても、その決断は自分の魂を引き裂かれるほどの決断であるべきだろう。我々の心情がそこまで追い遣られて当然なのに、言葉を機械的に受け取るのみで言葉の中に父母としての何の感情も子として受け取れないのなら、言葉だけの指示に従う意味は全く無い。今こそ良心が試されるときは他に無いに違いない。指示に従わざるを得ないと言う兄弟の言葉に対して私の良心は反応しないし、彼の良心をその言葉の中に見ることは出来ない。反逆者に従うと言う汚名を着せられることには何のわだかまりも無いが、それよりは私の良心に対して嘘をつくことは私には出来ない。この大先輩の言葉に触れることが無かったら、何の感情の伴うこともなく指示に従うべきだと言い放っていただろう。この言葉に触れたのには切実な神様の意志を感じる。切実な神様の意志を感じて初めて、この件に関する私の良心が脈打ち始めた。神様の意志としての良心が作動し始めた。
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