2010年7月11日日曜日

今日の想い 193

艱難は地上的なものとして、外に現れるものだとばかり思っていた。しかし艱難が訪れてみると、それは内部に起こり、我々一人一人に内的な影響を及ぼそうとしている。今現在、決して修復しつつあるような状況とは言えないので、余波は確実に末端に迫りつつある。誇張した言い方をして事を荒立てることはしたくないが、余波は食口ひとりひとりに津波となって押し寄せる。外的津波なら高い山に逃げることだが、内的津波をどう乗り越えたらいいのだろうか。今までは御父様の指示のもと、責任者の方向性は一致しており、純粋な普通の兄弟であれば方向性に対して何の疑いも詮索することもなく、即ち私が改めてその方向性を吟味し熟考し祈祷してみる必要なしに天のみ旨として受け入れていた。しかしながら今の状況は明らかにサタンが間にあって介入している。一人一人を指して、彼にサタンが入り彼女にもサタンが入った等と言う単純なことではない。当事者を含めて誰ひとり御父母様に反旗を翻そう等と企んでいる者は一人もいない。相反する者同士であっても、どちらも御父母様を愛しみ旨完遂を標榜している。そこに異を唱える者は誰もいないだろう。であれば人ひとりを指して非難することは間違っていると言えないだろうか。同じ山頂を目指しているが、そのルートと方法が違い、或る者が取る方法が他の者のルートを結果として妨げている、或る者はその方法が最善だという思い込みがある為、他の者の妨げは致し方のないことだと自分を納得させている。D-DAYが迫っている為、時間的にも感情的にも余裕はなくなっている。云わば最後の摂理に対してこれ以上の失敗は許されないという切羽詰ったものが相反する両者には共通していると思う。その為にそれ相応の犠牲は伴うものと認識しているはずだ。私はその犠牲が曲者だと思う。その犠牲を自分に負わせるのか、或いは他の誰かに負わせるのか。犠牲を自分に課した者を神様は取られるだろうし、犠牲を他に被せた者はサタンが介入して来ざるを得ないと私は思う。だから私はそこを見逃してはならないし、自分に犠牲を課した者に付いて行きながら私自身もそうあるべきなのだ。

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