2010年7月10日土曜日

食事を考える

いつもはどんなに店で忙しくしてても、食事は必ず自宅で取る。店で従業員用の食事が出されるが、どんなに美味しそうでも自宅で食べることにしている。自宅で妻の手を通した食事を口にすることが非常に大切だと思っている。妻の造る食事が特別美味しいとか(勿論美味しいに決まってはいる)、私の健康の為に配慮してくれているとか、そういうことではなくて、妻の手を通したものを口にして私の肉とすることが、夫婦が一つになる事の重要な儀式だと思っている。彼女が認識しているかどうかは別として、聖酒式で御父様から妻となる人に渡り、妻となる人から夫となる人に聖酒が渡るように、妻の手を通した食事を戴く事で御父様から受け取るものがあり、私が御父様から受け取ったもので夫婦が御父様の願う形でひとつになれる。別に先輩や誰か兄弟がそんな事を言った訳ではなく、私だけがそう思っているだけなのだが、実は御父様に聞けばそう答えられるのではないかと、ひそかに思ってはいる。今日は明日のミーティングの為にNEWYORKに上がらないといけないので、運転の途中サービスエリアに寄ってファーストフードを腹に収めることになった。昼食がフライドチキンとマッシュポテトで飲み物がボトルのお水、夕食はハンバーガーとフライドポテト、そして飲み物がコーラ。典型的アメリカンファーストフードだ。どう揚げたらこんなに衣が固くなるのかと思うような、着膨れしたチキンの足のフライを両手で支え、前のめりになって頬張る。固いチキンと格闘すると手も口の周りも油でギトギトだ。情緒が全く感じられない極端に言うとエサ化した食事は、たまに取るならいいけれどこれが毎日のように続くとなると精神的影響も大きいだろう。子供も学校の為、寮生活で家から出ているので毎日外食かTVディナーだそうだ。ファーストフードもどきをひたすら自分の肉とすることで、外的肉的実利だけを追い求める精神様相になっていったのだろうか。食事を取ることで外的に自分の肉とするように、どんな食事をどのように取るかによって内的にも精神的形を創り上げている。食事は明らかに内的霊的な祭事だ。食べて消化する事を通して、食する対象を昇華させている。

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