2010年7月9日金曜日
朝
新しい朝が明ける。新しい風景が始まる。新しい出会いがある。同じ君でも今日の君は昨日とは違う。私も違う。新しい何かが私の中に芽生えている。今日と言う時間と広がる空間の中にも、新しいものが芽生え、新しい風が吹き込む。今日が昨日の延長だと断定するなら、そこに希望はない。昨日の設定が今日の中に新たに組み込まれる。設定は同じように見えても設定されている霊的背景が違う。昨日の霊的背景と今日の霊的背景は異なる。昨日を含む昨日までの学びを、私という宇宙と大宇宙に、夜の内に差し出している。そして昨日までの御父様の勝利圏が、朝には大宇宙に反映され、私という宇宙にも反映されている。私は全体であり、全体は私だ。その感覚を持てば、新しい次元は既に広がり続けていることがわかる。昨晩はひとしきり涙を流した。涙を流しながら内的霊的には血を流した。表面で涙を流し、奥の深いところで血を流すことで、堕落の血で組成された自分の大きな部分と決別した。自分を自分とする執着と決別した。決別することで自己否定の本質的意味を受け取った。安侍日の啓拝を供えて、夜が明けて光が満ちていく流れの中にこの身を置きながら、私の中も光で満たされていく。この新しい光が今日と言う新しい自分を生きていく。過去に生きた概念を、全く新しい今日の光に当てはめようとするから混乱が生じる。今日は今日の新しい光に耳を傾け、差し出すものを素直に受け取る(委ねる)という内的霊的自然体を供えることが出来れば、共鳴体となって天の声を受け止めていける。天の運勢圏に何の抵抗もなく入っていける。今日の光の中に神様は訪ねてくださる。私の中の光はその期待感に溢れている。
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