2010年7月21日水曜日

今日の想い 195

その言動や行動を非難する兄弟の方が多いのかも知れないけれど、私はそこに心情の深さを見た。御父様の言葉を機械的に受け取り、その言葉を繰り返すだけの食口に、血が流れ涙がほとばしる感情魂を見る事は出来ない。立場上表面的には烈火の如く怒られはしても、御父様はそこに温かいものが流れているのをご覧になったはずだ。親であれば、子供の為に涙を流し立ち上がってくれる者に対して、どうして審判の言葉を振り下ろす事が出来るだろうか。厳しい言葉を口にされながらも、その背後にある親としての嬉しい想いがそこに含まれているのを私は見逃さない。祝福を与えて、目の前の食口が自分の子以外何者でもないと言う、親子の情愛、父子の因縁が、何事であっても切り離されない関係としてそこにある。御父様の位置に上り詰める為に、私達が為すべき事柄は見上げるばかりに山積されながらも、親子の関係故にそれら全てが凌駕される、その心情因縁こそが私達の宝なのだ。御父様が私を子として想われ、私が御父様として慕う、そこに何者も何事も介入されることはない。千万の峠を一瞬で超え、百死に値する罪さえ払拭される、そんな親であり子であると断言されるその言葉以上の福音があるだろうか。実績を数え上げながら、み旨を条件的機械的に歩むことに何の疑問も感じない我々のままではなくて、ただ御父様に喜んでもらいたいと言うその一心で歩むことが出来ればどれほど幸せだろう。天国に行くか地獄に行くかが関心事ではなくて、そこが天国であれ地獄であれ御父様と共にありたいと歩む事が出来ればそれ以上の果報者はない。私を尋ねる為にアメリカに来られたのだと、ずうずうしくも思える自分に私はなりたい。

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