2010年7月24日土曜日

今日の想い 196

進化論という唯物主義を多数の人間は信じている。特に特定の信仰を持たない多くの日本人は、進化論は当然の事として観念に焼きついている。進化論を否定した人間を彼らは普通の人間としては見ない。明らかにカルト的な宗教に染められた異質の存在として不思議な目で見る。少し考えれば進化論が全くもって正しいと万人が納得する説明が為されている訳ではないので、進化論もひとつの信仰に過ぎないのに、彼らは神によって人類が創造されたことをはなから否定している。進化論は神無き信仰だ。進化論信仰は自分の感覚に頼った判断を間違いないものとして規定している。この眼とこの耳で受け取る情報をそのままの情報として判断しているのだと言うけれど、判断までの過程に様々なフィルターをかけられ、かけていることを自覚していない。進化論を厳格に自分の観念の基礎に置くなら、全ての宗教的道徳的なものに何の価値も見出せない。人間の尊厳などと言う言葉に何の意味も無い。精神的なもの、内的霊的なものは幻想に過ぎない。しかしそこまで考え抜くことはしないで、自分なりの人生を謳歌するために都合のいいように神はいない、進化論は正しいと納得させているだけで、要するに誤魔化しながら生きているに過ぎない。都合のいいように誤魔化しながら生きる、即ち本質から逃げている。進化論を認めながら逃げている存在がいれば、神を信じながら逃げている存在もいる。本質から逃げるのであれば、進化論を認めようが神を信じようが同じ穴の狢(むじな)に違いない。正直に言うと私は逃げている。逃げまくっている。逃げて逃げて行き場を失って、そこで初めて観念して本質に向き合い信仰者らしくせざるを得ないのであって、追い詰められなければそこらの人間と同じように堕落様相に埋もれている。今の時代は益々追い詰められていく。全人類が追い詰められていく。追い詰められて真の父母を求めざるを得なくなる。私の根源にある永遠であり不変の自我存在に取って、追い詰められることが必要なのだ。根源的自分を認識した者に取って、困難に対面した時、感情は悲鳴を上げながらも、根源的な私が喜んでいるのを自覚している。その自覚を持つことで感謝と言う本当の意味を経験している。苦労と感謝は裏表であって同じ事柄の異なる面を言い表す。苦労や困難の耐えないのが人生であると解った者に取って、進化論や唯物主義はそれを消化する理念や力にはなり得ない。宗教的なものに目覚め、最終的に真の父母に出会うことで根源的自我存在を自覚しない限り、苦労は経験しても苦労を感謝に昇華することは出来ない。昇華できなければ苦労は怨念として内的霊的に蓄積されるだけなのだ。

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