2010年7月9日金曜日

今日の想い 192

確かに、先輩家庭が話してくれたように価値観の違いがあるのだろう。私は明らかに二世に対する間違った概念を所有していた。祝福の子女は原罪を持たないということがどういうことなのか、解ってはいなかった。今も解ってはいない。恐らくこれからも理解することはないような気がする。しかし神様は解っておられるはずだし、勿論御父様も解っておられるはずだ。それなのに原罪が無いとはこういうもので、祝福子女とはこういうものだという私なりのイメージでしかなかったと言うことなのか。それならそれでどうして前もって知恵を戴けなかったのだろうか。知恵は与えられていたのに私が受け付けなかったのだろうか。知恵を受け取るには余りにも幼い信仰だったからだろうか。私は立ち上がれないほどのショックを今受けている。心の相当部分が欠け落ちている。子供にどう対処していいのやら全くわからない。恐らく子供も親にどう対処していいのかわからないのだろう。この苦悩は私の子だという執着から発しているのだろうか。先輩が言うように、確かに産まれて直ぐ奉献式を済ましている。奉献式を済ませた以上、子供は神様の所有だ。子に対する親の執着心から出た苦悩であれば、奉献した意味がわかってはいなかったと言うことだろう。それとも私の苦悩は神様の子女として育て上げなければならないと言う神様との約束から来るものだろうか。私は先ず自分自身を整理しなければならない。今は感情だけが先走ってどんな言葉も子供の内には入らない。確かに私はこの機会に激しく成長しなければならないことは解る。それには大きな痛みが伴うはずだ。心の中の最後のしがみ付いているものを、力ずくで奪い去られなければならない。普通の親が子に対する想い以上の想いを食口であれば持っているだろう。親が子離れする以上の犠牲を、私に要求されている。これが私のイサク献祭に違いない。

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