2010年7月13日火曜日

昼の霊 夜の霊

太陽が沈んで暫く経って、西の空がかろうじて濃い青を保っている。枝を高々と広げた木々の輪郭が、濃い青を背景に影絵でも見るように幻想的に迫ってくる。あと半時もすれば輪郭は闇に溶け込んでいくはずだ。地上の人工的光がなくなれば、全ての地上存在は夜ともなると闇に溶け込んでいく。夜になって視覚を限定的にされることで内面を見る力を喚起される。昼の間、外界に意識を遊ばせながら、受け取り取り込んだ多くの体験がどのように内面に作用していくかを観察している。昼であろうと夜中であろうと、そこに存在しているものは変わらず存在していると誰もが思っている。昼の私と、夜の私は同じ私だと思っている。昼には存在物の輪郭を明確にしながら、それぞれの存在の個の在り様を明確にし、夜には輪郭を外されて全てが同じ闇として存在している。昼には昼の霊が私に働き、夜には夜の霊が私に働いている。昼の霊はより外界に意識をもたらし個を自覚し、夜の霊はより内界に意識をもたらし全体を感じる。御父様が話されるように、昼の神様が存在するし夜の神様も存在している。頭で思考する悟性人間は御父様の言葉で混乱する。神様は一なるお方であるのに昼の神様、夜の神様とはどういう意味なのか。問うことは正しいけれど悟性での理解、即ち自分の概念による理解を期待しても答えは返ってこない。既に風景の輪郭は完全に闇の中に沈んでいった。時間が経過したから夜になったのではなく、夜の霊が意志を働かせた為に夜を迎えている。昼の霊の新たな創造の為に夜の霊が働き始めたのだ。夜と昼が交互に来るのを当たり前と感じ、時間が確実に前に流れていく事を当たり前と感じ、空間が規則正しく広がっている事を当たり前と感じれば、そこに意志を見ることはできない。意志を持った霊的存在が働いている事を見届けることはできない。昼の霊と夜の霊が交代する時、朝に光が地上に満ち始める時と、夕方風景の輪郭が闇に溶け込む時、風景を眺めながら感情として引き起こされるものの中に昼の神様と夜の神様が語りかけている。

0 件のコメント: