2010年7月4日日曜日

今日の想い 187

今日を生きたと言うことは今日を闘ったと言うことだ。闘ったと言う自覚がないなら今日を生きたということにはならない。信じる闘いであり、愛する闘いであり、そして侍る闘いだ。そして自分を知らなければ闘うことはできない。なぜなら闘う相手は私の中にいるからだ。自分はどこまで信じることが出来るのか、そしてどこまで愛することができ侍ることができるのか。自分のそれらの限界域を明確に把握しながら、その境域こそ神とサタンが対峙する場であって、気持ちの逃げ場でうずくまっている限りは自分に働く神様も認識できなければサタンの存在も認識できない。認識できないけれど確実にサタンの懐の中にいるのだ。御父母様を知りみ言を知ろうとも、心を許せば直ぐにも堕落的なものに浸透させられる。なぜなら未だにこの地上は堕落圏の中にある。心の平安と身体の安逸を誰もが求めながら、それを得た時人々は幸福だと感じる。いや感じるはずだと思っている。しかし本来の心の平安は自分の内面の闘いが終らない限り訪れることはない。心の平安と言いながら妥協的なものに留めようとしている自分をわかってはいない。人間はどのような人間であっても根源的に神様に繋がっている。器官の一つ一つ、四肢の一つ一つ、細胞の一つ一つ、全てが一つになって統一的人間となっているように、人間ひとりひとりも神様の身体の一部であり、更に神様の心の一部でもある。器官のひとつ、腕や足のひとつが独立して存在できないように、自分だけの心の平安、身体の安逸は有り得ない。もし地上に於いて自らの根源的なものを覆い隠して楽しく過ごせたとしても、霊界に於いては根源的なものに帰っていく。その場で地上的、物質的、自己中心的、感覚的なもの一切は全て反転して根源的自己に降りかかることになる。天的であり霊的であり、更に他の為に生き心情生活を為しながら、そうであれば生きることが闘いだという意味合いはわかってくる。

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