2011年3月14日月曜日

今日の想い 276

これで終わるはずがないとは、誰もが感じていることだろう。今回の地震災害、津波災害で犠牲者は数万に及び、更に原発問題の成り行きも心配されている。犠牲者はまさに犠牲的に死を供えたのであり、天災の儀式に身を持って参加し、霊界への昇華を受けられた人達だ。残った者達は彼らの想いの全てを受け止めて、彼らの願いを成就する使命を負っている。私は災難から免れたという気分で息をついている者達は、実は生きて死の道を歩むよう選ばれた者達だということだ。その認識なくして覚悟と決意が備わっていないなら、別の死の形を取らなければならないだろう。死には確実に二通りある。公的犠牲的に死の門を超える者と、生への執着に囚われたまま自己中心的に死の門を超える者とがある。前者が通る死の門は霊界への扉が向こう開きであって、安らぎの内に霊体を傷つけることなく天への門を魂の歓びと共に超えていく。しかし後者が通る死の門は、扉が逆向きに手前開きなっていて、それでも無理に通過しなければならないので霊体を傷つけるし、四肢をももぎ取られながらでも地獄への門を通過しなければならない。地上的表現を用いざるを得ないし、他に説明の仕様がないので私流の説明表現になるけれども、そう説明せざるを得ない。しかし公的犠牲的立場で死の門を通っても、地上に残された者達が彼らの想いを成し遂げないのであれば、犠牲の為の犠牲に貶められてしまって彼らの恨を余計に募らすことになりかねない。私達は重いものを背負っている。霊的中心にある祝福家庭は尚更だ。生きながらえることが人間の主題ではなく、本懐を遂げられるかどうかが問題であって、真の父母の中心軸を備えた祝福家庭は今こそその証しを立てる時だ。社会的環境、地上的環境、それらの環境用件として私を取り巻き翻弄する挑戦的霊を、本当の意味でなだめ善霊に変えることができるのは、真の愛を備えた祝福家庭しかいない。私が祝福家庭として真の愛に立つ為には、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになろうとする以外ない。しかしその決意と覚悟に必ず御父様は尋ねてこられ、私と共に居られるはずだ。その私を見て、周りの者達が何かを見、何かを感じる。彼らにない、しかし彼らに必要な何かを持っていることを知り私達に従わざるを得ないだろう。私達は御父様の訓練を通して、真の愛を満たす器を備えている。その器には数万人、数十万人に与えても尽きない真の愛が満たされている。人類は私達によって救いを得る。日本民族も私達に依らなければ救いを得ることはできない。逆に言うなら、私達は彼らを救う責任があり、使命がある。

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