2011年3月8日火曜日

今日の想い 274

そうだった。今日は息子の誕生日だった。私と二日違いの誕生日だし一昨日までは覚えていたのだが、昨日の熱の為に記憶がどっかに飛んでしまっていた。妻が息子に電話をかけて、おめでとうと口にしたのを耳にして、ああそうだったと思い出した。産まれた息子を見たとき、こんな綺麗な赤ちゃんを見たことが無かった、本当に可愛かったと電話の向こうの息子に話していて、それを聞く息子の慌て様が目に見えるようだ。ここに記す事は出来ないが、出産当時、問題をかかえていたり、また早産だったため黄疸で保育器に暫く入っていたりで、息子が産まれた感動は別の感情に打ち消された形になっていた。妻が息子に話しているのを耳にして、そう言えば確かにそうだったなあと今やっとその一瞬を思い出して確認している。私は息子の誕生を多くの悲観的感情を伴って思い出されるのだが、妻は誕生に伴う本来の喜びとして記憶に刻んでいる。私が悲観的に捉え易いのか、それとも母としての本能が希望的感情を持たせるのか、どちらでもいいが私は妻の素直な喜びの感情に負けた。病弱な彼女だけれど、その一瞬母の強さを見た思いがした。私の全ての悲観的記憶は、私でしか生まれ変えさせることは出来ない。その記憶に刻まれた体験があればこそ、私の中で培われた別の魂の芽が芽生えたのだと消化できれば、その記憶を感謝の記憶として生まれ変えさせることができる。私の心の開かずの間にしまい込んだ、傷口をえぐり返す記憶をも取り出して、向き合って見る気持ちになった。今日は息子の誕生日。生意気な言動に手を上げてしまった高校生だった息子の誕生日。追い詰めてしまって涙を流させた中学生だった息子の誕生日。親の叱咤で泣きじゃくる妹を慰めた小学生だった息子の誕生日。高熱で入院してしまい、ベッドの横で心配している親を逆に元気付けてくれた二歳だった息子の誕生日。そして、元気な泣き声で、初めて父親になったことを知らせてくれた息子の誕生日。

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